3.11
今日のその時間、わたしは都心のデパートにいた。
「まもなく震災発生時刻になりますと、一斉に黙祷を行います。ご来店のお客さまも…」そのようなアナウンスが流れてくる。
黙祷をしてくれるんだ、と思った。
そして、してもらうほうだと思っていることにも気づいた。
8年前は都内の歯科医院で働いていて、午後の診療のまっただ中だった。
集中して歯を削っていた院長先生が「ん?」といって手を止めた次の瞬間、体験したことのない大きな揺れが起こった。
慌てて入り口のドアを開けると、どこからともなくギシギシと音がして、電線が大きく波打っていた。
待合室のテレビは慌ただしく緊急放送に切り替わり、宮城県出身のわたしは震源が東北だと知って血の気が引いた。
自宅や家族の携帯に電話をしても、どこにも繋がらない。そうこうしているうちに、中継のヘリからの信じられない映像が飛び込んでくる。
大きく長い津波が押し寄せていた。
余震も続き、仕事は切り上げることになった。幸い自転車通勤をしていたため、すぐに帰宅することができた。
おそるおそる部屋に入ると、ものひとつ落ちていない。安堵よりも「なんでわたしはなんでもないんだろう。」と、どうしようもない気持ちになった。
それからテレビばかり見ていた。緊急地震速報の音がトラウマになった。2日経っても家族の安否はわからない。親戚は、友達は、故郷の風景はどうなってしまったんだろう。
3日目に、やっと妹と連絡が着いた。
しかし仙台市内でひとり暮らしをしていたため、実家の状況はわからないとのことだった。送られてきた写真に言葉を失う。部屋中のものが倒れ、ぐちゃぐちゃだった。
それから2日ほど経ったころ、母から「生きてる?」とメールにが届く。
これほどまでにこっちが聞きたかったと、思ったことはない。
停電してるけど食べものはあること、情報が入ってこないこと、ガソリンが手に入らないこと、直前に亡くなっていた伯母の葬儀が保留になっていること、母の職場が大きく崖崩れして近寄れないこと、親戚は無事であること。
どんな日々を送っているかと思うと、ただ胸が痛かった。
そして身体にも傷みがでてきた。箸も持てないくらいの激しい関節痛が全身に起こり、血液検査を受けると「炎症があり、リウマチのような症状だ。」との診断。
結局はしばらくして落ち着いたので、一時的で強いストレスによるものだったのかなといまは思う。身体は正直だった。
49日という奇跡のようなスピードで復旧した新幹線で帰省したのは、5月だった。
県内をまわると風景が一変していた。
カバー写真は七ヶ浜町の海辺に打ち上げられていたコンテナ。
何年経ってもあのころの不安のどん底の苦しさや、連絡が来たときの安堵感は忘れられない。
忘れなくていいと思う。それは故郷そのものだから。