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【P3R】エピソードアイギスを17年ぶりに見直したら、私にとって何がキツかったのかわかった話

noteは複数アカウント管理できないのでゲームアカウント作るか悩んでたのですが、FF14でも作らなかった感情の吐き場所がどうしても欲しくなったので結局作ってしまった。ペルソナという作品は業が深い…。

基本的には私の感想書き殴りなので、ネタバレが気になる方、自分の解釈と違う物は目に入れたくない方はここで戻る推奨です。なお、私としてはFes当時はとても受け入れられなかったのですが、人生経験が増えた今改めてプレイすると「意欲的ではあるが橋野さんの目指した体験シミュレータとしては失敗しているんじゃないか。」という感想に落ち着きました。賛否で言うのはちょっと難しい気持ちです。


「正気か!?」と思った開発の本気度

リメイクの全体的なクオリティはP3Rに乗っかっているので基本的には高いのですが、エピソードアイギスとしては「さほど変わりはなかった」という印象でした。ただ、細かな変更点はこだわりや過去の批判を受け止めていてよかったなと思います。この辺りはやった人にとっては「変わったな」とわかる話なので割愛しますが、一番驚いたのは「#P3R_EA感想」というタグをつけて感想をツイートするキャンペーンを張ったことでした。昔のあの悲劇をまた繰り返すの!? という気持ちになりましたが、開発としてはそれくらい真正面からこのリメイクと向き合ったという事なのかもしれません。ちなみに、この記事を書いている現時点ではこのタグをつける人はおおむね好意的な感想を投下しているようです(いろんなところがマイルドになったので、それはそうかもしれませんね)。

ペルソナの中で最も等身大な高校生が描かれているP3

オリジナルのP3が出たのはもう10年以上前(2007年)になる訳ですが、今改めてプレイすると全然違う見え方をするゲームでした。これはきっと私自身が歳をとったからなんだろうな、と思います。これは多分、当時の開発インタビュー読んでもそう感じる部分があるので、クリエイターが表現したかったことを読み取れる歳になったという事かもしれません。

当時はとにかく自分の事しか考えていないゆかりや大したこともできないくせに口ばかり大きい(かといってムードメーカーとしても中途半端)な順平にイライラしていました。そしてエピソードアイギスでは仲間割れの引き金を引き、この期に及んでも我がままばかりのゆかりには閉口したものでした。

ただ、今改めてエピソードアイギスまでをプレイしてみて思うのは、「高校生なら当たり前じゃん」という事でした。大好きな人が自分の知らないところでいなくなって、思いがけず再開の可能性があったら、何をおいても「ただ会いたい」という思いが溢れてしまうゆかりを誰が責められるのでしょうか。

順平にしても、何者でもない事への劣等感っていうのは大なり小なり高校生男子ならほとんどの人が通る道だと思うんですよね。それを拗らせてしまって小物感が出まくっていた順平が本編通じて成長し、エピソードアイギスでは自分の分をわきまえて「それでも迷っているアイギスには任せられない」と戦うのは感慨深さすらあります。まぁそれでもビビッて過去に戻れないあたりがやっぱり等身大だなって思うんですけど。
(余談ですが、ゲームシステム的にキャラ性能がイマイチだった順平が今回クリティカル増産モンスターになったのは、本当によかったねという気持ち。順平を入れた編成がちゃんと選択肢に入るようになっててそういう意味でも感慨深い……。)

ゲームですから、キャラクターがデフォルメされるのはしょうがない、というか普通の事です。才色兼備のお嬢様、孤児院上りの脳筋ボクサー、子供離れした早熟小学生、美少女アンドロイド、などなど…(P4以降は高校生探偵まで出てくるし)。そういった面子の中に合って、この二人は本当に高校の教室にいそうだなと思ったし、当時2人に抱いたイライラは自分にそういう一面があったからこその同族嫌悪だったのかもしれないなと思いました。

そういう意味で、「絵に描いたようなヒロイン」してないゆかりを恋愛アルカナに据えてた3は新路線第1弾としては冒険的だったのかもしれないなぁと思います(結局Fesではアイギスが彼女にできちゃうわけですけど)。

ただ、P3そのもの、S.E.E.S.箱推し状態になっているファンからするとあの展開を受け入れるのは本当に難しかったなというのは今でも思いますけどね。単純に。「メンバーになにさせてんの!」となるのは必至で、だからこそ今回新規にP3Rでファンを獲得したところでエピソードアイギスもリメイクするのは少なからず驚きでした。

主人公=私を置いて進むリアルさとキツさ

この追加エピソードはアイギスの視点を通して、主人公の死をどう捉えるかという喪失と受容、そしてレジリエンスの物語でした。ただ、ここで難しいのはプレイヤーは誰か、ということ。ニュクスと戦って、ユニバースの力を得て、最後目を閉じたのは「私」だったのに、エピソードアイギスではまるで私のそんな感情は置き去りにストーリーが進行していく。私が立ち直る話じゃないんですよ。

真田先輩のいう事もわかるよ。ゆかりの思いも分かるよ。でも死んでるから何とも言えないわ(そもそもプレイヤーとして介入する手段は無いし)。何も決められないし、何も伝えられないわ。そんなとこでケンカしないでよ。

コロッセオで扉を開ける時とかしばらく停止してました。十何年ぶりに「あー、当時もここで止まったなー」って同じことを繰り返す私。もうずっと開けたくない。扉。

アイギスがずーっとうだうだしているのは、ストーリー上の彼女の葛藤や成長を描く意味でも必要なステップだと思いますが、その間主人公だったプレイヤーは「なにもできない」を味わわせられてキッツいのです。これはゲームである以上シナリオ進行に従わなければならない私と、自分は死んでいるので世界に介入できないという主人公がラップしているように感じます。

まさか「自分の死後こういう事もあり得る」ということをこういう形で疑似体験させられるとは…。フェスの時はうだうだした展開、見たくもない仲間割れ、やりたくもない仲間殴りに心をすり減らされたのですが、今になって思うと実際に自分が死んだ後の世界ってこんな感じなのかもなって(遺族がもめる話っていろいろあるし)。

もちろんゲームで(それもP3)でそんなの別に体験したくないという人もいるだろうし、そもそも私=主人公じゃないっていうプレイヤーもいると思うのであくまで1個人の意見なのですが、このゲーム体験は他では無かったなって思います。

それは同時に、私は常に物語を外から眺めているような感覚だったことも意味します。もし私と同じような感覚を持っているとしたら、本編であれだけ感情移入できたのに(だからこそ)エピソードアイギスには感情移入できないって思ったことでしょう。だってそこに自分がいないから。

ゲームにおいて主人公が生き返ることのカタルシスって、物語としてのご都合以上に、自分の居場所が戻ってくることなんですよね。例えば、クロノトリガーでクロノを生き返らせたいのは、それまで育てたキャラがもったいないとか主人公がいないとシナリオが締まらないとかじゃなく、主人公=私がそこにいたいからなんですよね。

私も美鶴先輩やゆかりとまたお話したかった。コロマルと散歩したかったし、真田先輩とトレーニングしたかった。天田君に勉強教えたり、風花のお弁当食べたかった。アイギスが笑って学校に通うの見たかった。「私が」そうしたかったんだ。

「そういう事はできませんよ。死んだので」というのをずっと突き付けられるのは、本当にキツい。そういう意味で、このシナリオが私にとって「楽しかったのか」を問われると10年以上たった今もNOだなと思う。せっかく未練なく逝ったのに、それを逆なでされる感じというか。でも、他のゲームではできない体験だった。シナリオとしては相当に挑戦的だなと思う(そういう意図だったかは知らないけど、後述のインタビュー含めて考えるとあながち外れてもないような気がしてる)けど、これが構造的に、エピソードアイギスで一番ツラいことだったんだろうなと思います。

その上でコンテンツとしてどう思うか

シナリオに関してはここまで書いたような理解ならできるかなと思いましたが、それはゲームとして良いのか? というのは思います。橋野さんはRPG作りにおいてリアリティ、感情移入の妨げを作らない、ユーザーへのお返しの3つが重要な要素としています。

――独自の視点ということですが、RPGを制作するための要素を3つあげるとしたら、どういったものがあげられるでしょうか?

橋野:1つは「リアリティ」ですね。これは、映像などがリアルということではなく、どれだけ現実味があるか生々しいかという感覚的なリアルさです。2つ目は、「感情移入の妨げを作らない」ですね。僕はRPGをプレイしていて、主人公がちょっとでも鼻につくと「こいつはオレじゃない」って思っちゃう人なんですよ。ですから、極力個性のない主人公を立てるといった点に注意しています。3つ目は、「ユーザーへのお返し」ですかね。RPGは長時間プレイしてもらうものですから、何かしら得るモノがあったり、1つ体験が増えたと思ってもらえたりしてもらえる努力をしています。ただの娯楽なら、映画を見ることでも満たせるわけですから、ある種RPGには、体験シミュレータとしての役割を持たせたいと考えているんです。

電撃PlayStation 2007年01月12日号 Vol.376 付録 DENGEKI Re:Play VOL.1 『ペルソナ3』 橋野桂、田中裕一郎、副島成記 インタビュー

1はとてもにリアルだったと思います。つらい、キツイという点において。しかし構造上死んでいるのが自分(主人公)なので、死者との別れやそこからの前向きな立ち直りってできないんですよね。プレイヤーには。だからこそ2点目の感情移入については全然できない。他のキャラクターたちとは本編でこってりと絆を作っているという本編の特性上、今更映画みたいに「私は○○に一番感情移入できたなー」ってならない。友達や恋人としては思うところはあってもあくまで他人として共感するだけで、本編とはちょっと違うんですよ。制作サイドが主人公=私というスタンスではあるならば、このストーリの最後に主人公としての何かを用意してほしかった。

3についてはこういう死に関する疑似体験という物を「得るモノ」にしたかったのだろうと思います。でも、死の喪失とそれを乗り越えるというテーマは荒垣先輩でもうやってしまった。自分の死後どうなるかという体験は、面白い設定だけど「命のこたえにたどり着いて、最高の充実の中で死を迎えた*結果待っているのが大切な仲間たちが殴り合う姿」なのは救いが無さ過ぎる。体験シミュレータとしての役割を果たすという意味では、やっぱり最後に主人公としての介入ポイントを作って、そこを体験ポイントにして欲しかったなという思いがあります。
*P3で描きたかったのは「最高の充実の中で事切れるラストシーン」であるというインタビューがあります。

じゃあ私はどうしたかったんだろうって思った時に頭をよぎったのは、「何も相談せずに全部自分で決めちゃってごめんね。何も言わずに先に行ってしまうけど、ごめんね」っていう思いだったんですよね。あの戦いでユニバースに目覚めて、みんなを置いて月に向かって、一人で戦ってニュクスを封印して。終わったらみんな記憶が無くなってて話はできないし、思い出して駆け付けてくれた時にはもう限界で、本当は一言御礼とお詫びがしたかったんだけどな、っていう。ゲームデザイン上主人公は無色透明にするというのが開発サイドの意向だからこういう具体的な描写は難しいとしても、「死んだ後に一言伝えられるなら」っていう体験をさせてほしかったな。アイギスも命のこたえにたどり着いたというのが=ユニバースの力を得たという事なら、どうとでもやりようはあったはずじゃないかなぁと思っちゃうんですよね。

そうできないとなると後は主人公としてではなく、「ただの観客」としてこの物語を見るしかないのだけど、追加エピという事で展開が強引なところが多いし、メティスが狂言回しとしては中途半端だったりしてつらいシーンが多い。特に普段は何もわからないキャラで通すのに都合よく時の間の設定を自信満々で語ったり、「この炎が消えるまでに鍵集めないと仲間は死にます」って後で言ってきたり、無茶が過ぎる。そりゃ真田先輩もキレるよ。

それから、今回のリメイクに関していえばテウルギアとしてミックスレイド引き継いだのは気になりました。ゲームのシナリオってシステムとの整合性があるので、ある程度設定を後付けするのもしょうがないと思うし、それを成り立たせるために突如新キャラが出て来たり、世界の謎が増えたりするのはしょうがないと思うんです。ただ、そうするならそれだけの納得性を与えるのが世界観設計とかシナリオライティングの仕事だと思うんですね。ただ、この点については全くそれらしい説明が無かったように思います。まさか今後の作品で主人公(ワイルド)が全員ミックスレイド持ち、なんてことはしないですよね…。全書引継ぎの件も含めて、納得いく説明が分かりやすく*示されるべきだったかなと思います。
*本編で主人公がアイギスの魂の源とも言うべきパピヨンハートに触れる(そして遺伝子情報を残す)というシーンがあるので、これによって何かを受け継いだ(あるいはその資格を得た)可能性は考えられるものの、コミュMAXじゃないと見られないシーンなので世界設定的に前提にするのはちょっと強引な気もする。

システム面で言えば、難易度変更、全書引継ぎ、モナド装備の充実とテウルギアによる火力UPなどでかなり戦闘は楽になっていたと思います。私はずっとNOMALでしたが、超序盤からモナド右扉行ってもなんとかなりました。Fesでの苦労は何だったのか…。ただ、ひたすらダンジョン周回なのは変わらないので「瞬殺*」は入れて欲しかったなと思います。これは本編でも思いましたけど、ダンジョンにいる時間が長いエピソードアイギスでは余計に感じました。
*瞬殺…P5Rにて実装されたシステムで、一定レベル差のある敵にダッシュ状態で接触するとその場で戦闘終了扱いになります。サクサク探索が進みます。それに慣れてしまうと、余計に今回は辛い。

それでもみんなが未来に向かって歩き出したことは嬉しい

私が死んだら、未練を残した怨霊でもない限り生きている人たちには前向きに笑って過ごして欲しいと思います。そして時々、思い出してくれたら嬉しいなと思います。そういう意味での着地点自体はズレておらず、これからもS.E.E.S.のみんなが幸せに暮らしてくれたらと思うのです。

体験シミュレータとしての「体験ポイント」の設計、追加エピとしての強引さへの解決などには不満があるものの、自分の死後を観察できるという意味でチャレンジングなシナリオだったなと思いました。その分辛いことも多いのですが、死後の無情さ、現世との隔絶感というのは体験できたかもしれません。賛否あるシナリオでしたが、これは死というものをテーマにした以上他のテーマより難易度が相当に高かった結果だろうなとも思います。ゲームを遊ぶ年齢層、作り手の思い、ストーリーテリング、ゲームデザインなど、どこかで1つでもかみ合わなければメッセージが伝わらないからです(そして現実に、オリジナルであるFesは大炎上しましたし、今回は一度燃えた人が当時ほど加熱していないだけとも言えます。私も正確に受け取れたとは思ってなくて、こう解釈して決着をつけようという気持ちが強いです。)。

ただ、私は「クリエイターが一番キャラを愛している」と思っているタイプのオタクなので、それぞれのキャラのセリフや行動には語られていない部分があるのだろうと思うことにしています。そして、語りが足りないという事は制作上の問題だと考えることにしています。私も分野違いとはいえクリエイターの端くれとしてモノ作りの難しさはよくわかります。チャレンジも必要だし、予算や納期の制約もある。もちろんファンにはそんなの関係ないけど、毎回100点が出せるわけじゃないのも現実だろうと思います。だから、これからも良いRPGを作って欲しいなと思うばかりです(ただ、仕事が雑だなと感じるところについては話が別ですが)。

良い物語というのは、コンテンツが終わってもその世界がユーザーの中に残り続けるものだと思っています。情景や会話が思い出として残り続け、「自分がそこで生きた」と感じられるものだと思うのです。その意味でP3は今でも私の中に残っているし、登場人物たちが今も巌戸台にいるような気がしています。エピソードアイギスで全部台無しになったとは思いません。だから、変わらずP3は私によって良い物語であり続けます。S.E.E.S.のみんなと同じように「生きる」という事に前向きに生きて行こうと思います。

参考)インタビューソース