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手元の古文書を読んだら、それは鳥取藩の尊王攘夷に対抗する命令書だった。

私の住んでいる鳥取県日野町は、江戸時代に鳥取藩重役の福田氏の支配地でした。
鳥取県立博物館に福田家の古文書があったので、コピーをいただき読んでいます。
こたつに当たりながらぼーっと読んでいたら、あら?これって大事なことなんじゃない?と気付いたことがあります。

京都で池田屋事件があったとき、勤王の志士の待ち合わせ相手は桂小五郎と鳥取藩士たちであったことは歴史マニアはご存じの話です。

そのとき桂小五郎と河田佐久馬ら鳥取藩士数名はかろうじて難を逃れました。

その後、鳥取藩士は鳥取藩が尊王攘夷に動かないのは、重役のせいだと考え、重役のいた本圀寺を襲撃します(本圀寺事件)

これは大事件だったのですが、ほかにも騒乱の続いた時期だったので、意外と知られていません。
重役3人殺害の後、鳥取藩士20人は捕らえられ、鳥取に送り返されます。

この古文書には、因幡20士が日野町に幽閉された時、監視に当たった福田氏に下された命令がいろいろと書かれています。

同年六月廿四日
一 左之面々儀先達而良正院ゟ京都御屋敷江御呼返急度慎罷在候様仰付置被・・・

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つまり、捕まえた藩士を京都の良正院から京屋敷へ連れ帰った後、さらに鳥取藩に連れ帰り、日野町黒坂に蟄居を命じたこと。
福田氏も大急ぎで領地の黒坂に帰り監視するようにと書かれています。

福田造酒は重役なので普段は領地にいないで、鳥取城下に暮らしていたのです。
福田氏の家臣団はそれまで外国船打払令により、淀江海岸を警備していましたが、その任を解かれて黒坂に転身します。
当主の福田造酒は鳥取藩から応援部隊を派遣され、その組頭となって警備に当たります。


黒坂泉龍寺に謹慎する犯罪者に対して家族が面会に来ても、会わせたりLineをさせたりしたらだめだからね。
とか、
他国者が連絡しようとしてきたら、やっつけちゃってもいいからね。
などという命令が出されています。

そのあとに続く文書には、鳥取藩の認旗を授けるので長州討伐軍に参加せよという命令書も出ています。鳥取藩の代表選手ですね。

陣営で床几を使っていいよとか(軍議でイスを使えるのは上級職だと思う)、鳥取城での儀式での席順を上げてあげるとかあの手この手で誘っています。

なかなか、生々しくてレアな文書だと思って読んでいます。

これが現実にやり取りされた文書なのですね。


なお、鳥取城は今は無いのです。

近年になって、橋が作られ、門が作られました。

そのうち、城も再建されるという噂です。


因幡二十士は、謹慎の最中に逃亡を図り多くは亡くなりましたが、河田佐久間は生き延びて、明治には鳥取県令になっています。



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