鳥取藩の尊王攘夷と古文書
私のいる鳥取県の奥日野。
江戸時代には福田氏が領地として支配していました。
日野町古文書に親しむ会では、統治の様子を知ろうと「福田久道家譜」を解読しました。
もちろん、古文書といえば例の分かりにくい筆文字でつづられた文書。
それは120ページからなります。
藩主池田家に仕えた福田氏が鳥取藩にやって来て、江戸時代を乗り切ったことが延々と書かれています。
面白かったのが幕末の記述。
異国船警戒のため、海岸を警備していた福田造酒に、突然、黒坂領地に帰るようにとの命令が下ります。
多くの家臣を連れ黒坂に戻ってみると、京都から藩士がやってきます。
作州路を20名の藩士が連れられてきて、黒坂で慎みを命ぜられました。
いわゆる、軟禁です。
家族や知人と手紙のやり取りをさせてはいけない。
とか、
他国から帯刀武士が来ても、付近に泊まらせてはいけない。
言う事を聞かない場合は討ち取っても苦しからず。とか物騒なことが書かれています。
じつはこれは、本圀寺事件だったのです。
幕府擁護(佐幕派)に傾いていた鳥取藩と、尊王攘夷に傾倒していた若い家臣たち。
若い家臣たちは、京都本圀寺にいた鳥取藩重臣を暗殺してしまいます。
しかし時の流れは非情で、事件のあくる日には七卿落ちがおこってしまいます。
(尊王攘夷派の三条実美らが京を追放されてしまう)
これで勢いを失った尊王攘夷派。
因藩二十士はクーデター未遂の首謀者として捉えられたのでした。
彼らはのちに逃亡を図り、当時にしては珍しく、実際に敵討ちにあって亡くなったりしています。
生き残った人の中には、長州に匿われのちに政界復帰して、鳥取県令になった人もいます。
寺田屋事件や七卿落ちの影でこんな事件があったのです。
ちなみに寺田屋事件でも鳥取藩士が集まる予定だったが、遅刻したとかききました。
意外と過激な人たちが鳥取藩にもいたのですね。
ちなみに福田久道家譜は全文を解読、清書して60ページほどになりました。
郷土史マニアのために図書館にでも寄贈しようかと思っています。