私の闘病記_検査結果
2月14日に針生検をして、2月19日。この日アメリカでは祝日なのに、医療機関から電話がかかってきた。もともと検査結果を聞くアポは2月21日に入れていたので、このタイミングで電話がかかってくるってことは、と悪い予感しかない。
電話を取り損ねたため、留守番電話が残っていた。早めに折り返しくださいとさっぱりしたメッセージ。掛け直しをしたが、折り返しまで時間が経っていたため、すでに医療機関は閉まっていて、詳細不明。不安な夜を過ごすことになった。
翌日朝、医療機関のオープンと同時に電話をしてみたら、今すぐきて欲しい、とのこと。アメリカの医療機関は基本すべて予約ベースなので、こういうことは珍しい。逆を返すと、それだけ重要ってことなのか、よっぽど今日以外空きがないのか。色々考えてしまう気持ちを宥めて、車で旦那と共に検査機関に向かった。
受付で名前を告げて、予定外の訪問であることを告げる。カルテに載ってないので、電話でのやり取りを伝えて、席で待つ。待ちきれない旦那が、トイレの場所を聞いてトイレに行くついでに、担当者の個室を探し当て、私を呼ぶことに。こういう行動力はすごいなと思う、突破力というか。尊敬してるよ、旦那ちゃん。
ここでもアメリカらしいのは、会うのは医師ではなく、ナースナビゲーターという患者の治療プロセスに寄り添ってくれる看護師というところだろう。医者は診断したり、外科的なことをするためにいて、他の大抵のことはナースにより行われる。
誕生日と名前の確認をして面会開始。彼女の名は Sacred、名前を訳すことは普通しないが、これは反応せずにいられない、聖なるもの、という意味だ。キリスト教においてはかなりの意味を持つこと言葉が彼女に名付けられている。旦那と共に、まずは名前について小話をして場を和ます。これから話されることに、旦那も私も、ちょっとビビっていたからだと今は思う。
ひとしきり場が和んだ後、彼女が本題に入る。残念ながらDCISが見つかりました、と彼女がいった。それは?と聞く前に彼女は説明してくれた。Ductal Carcinoma In Situ=非浸潤性乳管癌 と呼ばれるもので、まだ乳管の中に留まっている癌細胞。正確にはまだがんとは言わないらしい。このまま置いておくと乳管から外に出て、リンパに乗って他の臓器などに転移を始める可能性があるが、この段階で見つかったのは運がいいですよ、と、不幸中の幸いを強調される。大きさも18mmだから、指の第一関節くらい。取り除けばそれで大丈夫、まだステージゼロだから、治るからきっと大丈夫、ひとしきり励まされた。
当事者である私は、情報の洪水により混乱を極めていた。ステージゼロ、18mm、DCIS。切るって手術?どのくらい切るの?化学療法いるの?放射線は?髪の毛は抜けるのか、仕事は続けられるのか?際限のない質問が込み上げる。
ひとしきり説明をしてくれた後、質問はありますか?と聞かれた私は、思いつくままにバラバラと質問を投げかける。英語は第二外国語なので、拙い。言いたいことを言うのも時間がかかる。時系列も関係なく、体系立ってもいない質問を不完全な英語で投げかける私を彼女はかなり辛抱強く聞いてくれた。
その場で理解したことは、切り取りは部分的で、多分放射線は必要だけど、化学療法は多分不要なこと。仕事は続けることができて、日本に一時帰国することも可能。まだ乳管から出ていないので、切り取れば治る。だから心配しすぎないで、と言うことだった。
大体の質問が終わって、自分が置かれた状況を理解した。あとは日本語で情報を消化することにする。もしも一人だったら、あの時何言ってたっけ?となりそうだが、旦那ちゃんがいるので、その点助かる。いつもありがとう、旦那ちゃん。
質問が終わってひと段落して、セークリッドから、次は外科医ね、どの外科医にする?と医師のプロフィールカードを見せられた時、またびっくり。日本では手術などの経験も入院も経験がないので、日本と比較するのは正確じゃないかもしれない、医師ってこんなトランプみたいに選ぶものなの?まず、二つの病院のうちどっちにする?といって、その病院に属する医師をペラペラと見せてくれた。この病院なら放射線もする場合一気にできるよと言われて一つの病院を選択。そこに属する3人の医師についてはプロフィールを見て検討し、こちらから連絡します、と答えるのが精一杯だった。
このように、アメリカの医療システムや、医療用語に圧倒されまくりのコンサルテーション。乳がんステージゼロに対応する生活が、始まりました。