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私の闘病記_検査

1. 乳がんは遠い存在

私は40代になってからパートナーを見つけた、いわゆる晩婚さんだ。
20代、30代に何をしていたのか、今となっては霧の中の記憶のように、はっきりとは思い出せない。与えられた仕事をしながら、実家暮らしで困らない程度のお給料をもらって、好きな人がいて、デートしたり、クリスマスイルミネーションを見たり、人並みの恋愛らしきことをしていたと思う。いまから振り返ると、恋愛至上主義の価値観に縛られていた自分に気づいてしまい、何というか、時間の無駄遣いをしてしまったのではと思うこともあるが。

なんだかんだで世間の言う婚期を逃した私は、途中から子供を諦めていた。重度のアトピー性皮膚炎を持っているため、元来自分の遺伝子を残したいという願望が薄かったというのもある。
そんな私が30代になって医療保険契約をする時には、女性特有のがんの特約を契約した。うちの家族はガン家系ではないけど、未婚、出産経験、授乳経験なしは乳がんのリスクがあがると聞いていたので、念のため、という軽い気持ちだった。多分、乳がんや女性特有のがんの啓蒙活動が私の30代と一致していたのだろう、ピンクリボン運動や、乳がんには早期発見が大切などの意識はどこかしらにあった。

2.まずは検査

そんな私の人生に、思いがけず乳がんは入り込んできた。
1月にいつもの定期検診を受けて、後日のマンモグラム。
いつも通り小さな胸を目一杯伸ばして機械に挟む。あなたの胸は小さいから。あなたの胸は凝縮していて異変を見つけづらいのよ。などのコメントを聞きながら、また来年ねと言われると思ってたが、翌日検査機関から、もう一回撮りにきてくれる?と電話があった。そんなもんか、と思って再度撮影後、検査技師が真剣な顔で、今からドクター呼んでくるから待ってててね、と。
今までにない雰囲気にあ、もしや、と不安がよぎった。数分後先生がきて、疑わしい影があるから、生検が必要と、生検の仕方の説明を受けた。
日本だったらもっと真剣にテーブルを挟んで話すような話もここアメリカでは立ち話でされる。でもその雰囲気からあんまり良くないことなんだなってことがわかった。その日は生検のチラシをもらって帰路についた。

そして生検の日。支払いを済ませて個室へ。別の医師から手順やこの検査の目的など再度説明を受ける。85%の人はなんでもないことが多いので、緊張しないでいいよと医師から説明を受けた。でも15%はなんかあるんだよね?と突っ込みたくなったが、困らせても仕方がないので、大人しく指示に従う。

台の上にうつ伏せに載り、真ん中に空いた穴に小さめの胸を入れる。大変なのはこの後。とにかく動いてはいけないのだ。うつ伏せだから前髪がハラハラとおでこに落ちて痒かったり、検査着がなんかむずむずしたり。動くなと言われるととっても辛い体勢なのだ。せめて顔をはめるような穴があれば良いのだが、ここはアメリカ。そんな気が利いたものはない。体はうつ伏せ、穴から胸、顔は右向きという体勢で、看護師の作業を待つ。

その間看護師がマンモグラムの機械を操作して、問題の箇所を探し当てる。胸が大きい人ならビヨンと伸びるから、看護師も作業がしやすいのだろうが、私の場合申し訳程度だから、台の穴からちょっと顔を出す程度の胸で、180°のマンモグラムでもとても台に近く作業が困難そう。苦労しているのが空気で伝わってくる。でもこっちも不自然な捩れた体制で台の上にいるので、気遣う余裕はない。そうこうしているうちに箇所を特定、これから動かないでねと念入りに言われる。いやもうここで結構大変なんですけど、まだこれからですか、といった気分。

医師が呼ばれ、胸に麻酔の注射。いやー注射を腕や歯科治療以外に体験したことがなかったので、この予想外の痛さに慄く。ほんとに痛い。メスのような刃物で差し込んでいくような痛さ。実際のものを見ていないのだが、歯科治療での点の注射のはずなのに、線で痛みを感じるのと同じ感じ。まあ痛い。叫んでいいいよと言われ、ここは日本語で痛い、と叫ぶ。麻酔なのだからこの後が本番なのだが、これが本番のように痛かった。この後は、スナップね、と医師に言われ、コア針生検と言われる、パシッと太い針を秒で刺される。これは秒だったのであっという間。これが終わるとやっと終わり。合計で40分程度だったと思う。胸の大きさなどにより感じ方が違うようだが、私の場合は痛かった、です。
この検査の結果などはまた続きで。

人生初のことが多すぎて、どう理解し、対応していいのかわからないことが多いけれど、その場でできるベストな選択をするしかない、と思う。未来は毎日の積み重ねで、選ぶことこはできないからだ。ほんと、毎日大変だけど。

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