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【多分エッセイ】謦咳に接した記憶|#青ブラ文学部(約2900字)

山根あきらさんの企画に久々に参加します。
宜しくお願いいたします。


中高時代、ラジオの深夜放送を聴きながら勉強をしていた。親はラジオ講座的なものを聴いているんだと思っていたようが、実はまるっきり娯楽で趣味の世界を楽しんでいた。

初めは確かにラジオ講座を聴く気でいたが、うっかり民放の楽しげな番組を聴取したら…ハマってしまい、私はもっぱらJOLFニッポン放送のコアなリスナーとなる。

0:00〜0:10『あおい君と佐藤クン』
0:10〜0:30『かぜ耕士のたむたむたいむ』
0:30〜1:00『COCKY POP』
1:00〜3:00『オールナイトニッポン第一部』

ニッポン放送の深夜放送枠(約50年前)

で、この太字で示したコーナーが、私の人生でかなり大きな影響を与えた…謦咳けいがいに接した記憶にあたる部分だと思っている。

かぜ耕士のたむたむたいむ

番組が始まるとトムトムという打楽器(タムタムは銅鑼どらのことらしいので違う)のリズミカルな音が流れる。そして徐に、かぜさんはその日のできごと『今日、外を歩いていたらふっと金木犀の香りがしてきて、どこに咲いているのか探したんだけれどわかりませんでした』…みたいな短い話をし、月曜から金曜まで数年間

こんばんは。
ひらがなで『かぜ』
漢字で『耕す』に武士の『士』
かぜ耕士です!

と、毎回自己紹介をされていた。あの頃「かぜさん」と言ったら、このかぜ耕士さん以外には考えられなかった。(今だと藤井風さんだろうけれど)当時の思いも込めて「かぜさん」と綴ります。

かぜさんとは… こんな方。 ↓↓

コーラス部にいた私にとって、かぜさんの作詞された『涙をこえて』や『脱線列車に乗り込んで』は耳に馴染みがあったけれど、何してる人?と思う人にとっても、この番組は傾聴に値する魅力あるものだった。かぜさんがどこで何をしている人なのかよく知らなくても、ラジオで彼の語りを聞いていると「この人は信用しても良い人だ」と何故か思えてしまう…そんな人物だった。

20分間のコーナーは、ほとんどが番組宛に送られたリスナーからのお便りや自作自演の曲やポエム紹介の場で、かぜさんが感想を伝える…そんな時間だった。テレビにほとんど出演せず、見たことも無い何をしているかわからない人:かぜさんに対して、当時の自分(中高生)と同年代のリスナーはまるで旧知の友にでも語りかけるような手紙を送り、かぜさんも毎日2〜3通読み上げていた。で… その手紙に対する語りかけがものすごく心に響いていた。

まず、きちんと読んでくれること。個人情報が書かれているような箇所は当然割愛されるのだけれど「ここは読むと場所とか誰のことかとかわかるから読めないけれど…」と丁寧に説明してくれる。また、そのように話してくれるから、公共の電波等で発信されるところへの投稿には気をつけないといけないな…と理解できた。

きちんと読んで… まず書いた人の気持ちをかぜさんなりの共感で伝えられる。失恋関係の話が割と多くて「悲しかったんだね」「すごく辛かったんだね」と結ぶ。「失恋なんてよくある話さ」みたいにいきなり話さない。リスナーの自分も隣に並んで座って、親友の話を聞いている気分になる。いつか自分が同じ立場になった時、こんな風に接せられたら…と思った。

面白い話の時は、それこそ放送事故になるんじゃないかと…かぜさんの「カッカッカ…🤣」という笑い声が止まらなくて、ラジオの向こう側でかぜさんが腹筋崩壊している図が浮かぶくらいだった。聴いていた人は皆、心配していたと思う。

かぜさんはリスナーより当然年上…10歳くらい離れていたと思うが、大人として諭すというよりも同じ人間として、それぞれがいろんな人生を歩んでいる仲間…そんな感じでラジオから語りかけてくれていた。若気の至りのような話も「これからたくさん経験して学んでいくんだよね」みたいに前向きに言葉をかけてくれた。だから… 誰にも相談できなかったことでも、かぜさんになら馬鹿にされず聞いてもらえると信じて投稿しているんだろうな、といつも思って聴いていた。

私がかぜさんから学んだことは、まず人の話はきちんと聴くこと。年齢や職業・肩書きとか抜きにして、その人が何を聴いて欲しいのかをまず理解する。それから必要であれば自分の意見を伝える。それも、私の意見が正しいとか普通ならこうする的には言わない。その人がその人なりに考え悩んだ末の言動に対して「私はこう思う」と述べることが誠実な回答だと思う。

あとは、誰もが持つ「名前」について、正しく覚えることが誠実な接し方だと思う。

かぜさんは毎回、自分の芸名を繰り返し繰り返し番組冒頭で説明していた。

こんばんは。
ひらがなで『かぜ』
漢字で『耕す』に武士の『士』
かぜ耕士です!

半分ネタみたいなところもあると思うけれど、時々お便り紹介時に「ぼくの『耕士』は道路工事の『工事』じゃないからね」とか「『かぜ』は平仮名だからね。風邪ひきの風邪じゃないよ」という言葉をたまに聞いた。人の名前は間違えると失礼で馬鹿にしているように感じるな…と真剣に思った。

今、私は小学生の児童に接する仕事をしているけれど、かぜさんの番組聴取から学んだことを実践している毎日だ。

名前はきちんと覚えて、上から目線で話しかけず、困っていたら丁寧に話を聞くし、楽しければ一緒に大笑いする。

あの時の毎日20分の時間の積み重ねが、その後の私の行動の元になっている…謦咳に接した記憶の再現になっていると思う。



後日談になるが、約20年前に「そういえば『たむたむたいむ』という番組があったな」とネットサーフィンしていたら、当時を懐かしむサイトがあって、かぜさんも掲示板に書き込みにいらしていて…  当然私は参加した。しかも、ちょうどオフ会参加者募集中期間!「かぜさんに会える!」私はもちろん参加した。参加者は40名ほど。『たむたむたいむ』を聴いていた同士しかいない集いだった。初顔合わせな人ばかりなのに「そう言えば『茶色の少年』って…」とか話をすると「アレは最高だった!」と次々に懐かしい話題が出てきて… それに何よりもかぜさんが変わらずにかぜさんであったこと。お互い20年くらい時が流れて、いわゆるいい大人になっていたけれど、かぜさんを師と仰ぐ同窓会の雰囲気だった。かぜさんは放送作家等の現役を引退し、趣味で私設の放送番組を持っていたり、映画評論の場を設けたりしていて、私も都合が合えば参加していた。直に謦咳に接する機会も多かったのだが… そんな幸せな時間は長く続かなかった。

その時がいつ来るかなんてわからないから、
嫌なことに文句言う無駄な時間はもったいないから
今できることを考えて精一杯やるだけだよ

いつかサイゼリアで一緒にご飯を食べた時に、トニックウォーター飲みながら呟いていたかぜさん。きっと、やりたかったことをたくさんやり残していらしたとは思うのですが、精一杯生きることに頑張って「あとはしょうがないや」とスッパリと執着せずに逝かれたのではないかなと勝手に思っております。

『たむたむたいむ』という番組に出会えたことは、本当に幸せな出来事でした。

かぜさん、ありがとうございました。

#青ブラ文学部
#謦咳に接した記憶
#かぜ耕士さん


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