死と隣り合わせの光の世界
目に見えないはずの恐怖が可視化したとき、初めて患者さんと同じリスクを少しだけ背負った。それが、人生の意味について考えるきっかけになった。
ここはコロナ専属病棟。
自分は年齢的にリスクにはならないし、これといった基礎疾患もない。確率的には、仮に感染しても死ぬリスクは少ない。イタリアの報告をみれば、0.5%以下だ。人種の影響もあるかもしれない。もちろん、若くて基礎疾患がないのに超重症になる人もいる。特に医療従事者は、一般の人が市中でもらうよりも大量のウイルスを浴びる可能性があり、感染リスクは一般の人よりもだいぶ高いし、無症状で済まないことも多い。実際に知り合いにもコロナにかかった人は何人もいる。
一般論でいえば、感染症は病原体の攻撃力と、感染した人の防御力のバランスで成り立つ。病原体の攻撃力は病原体の量と毒性(病原性)だ。感染した人の防御力は、基礎疾患の種類と状態、あとはストレスなどの不確定要素だ。
大量にウイルスに曝露した場合は症状が出やすく、重くなりやすい。
重症の感染者は基本的には基礎疾患のある人が多いし、若くて元気なのにかかるのは医療従事者など、ウイルス曝露量の多いフロントライン・ディフェンスだ。
確かに、報告されている統計・確率通りだ。ただ、その数字からは伝わらないヤバさが病室の前に立っただけで伝わってくる。重症化する場合、何より症状が激烈だし、普通の肺炎では考えられない、かなりのスピードで急激に進行するので、かかった人の恐怖は計り知れない。
こんなに気をつけて病室に入ったことは、ないかもしれない。できる限りの完全防備で入室し、不要に室内のモノに触れないように細心の注意を払う。
居合いで相手と対峙した時の武士の気分だろうか。敵は目には映らない。でも、確実にそこにいる。心の眼で敵の出方、息づかい、エネルギーを感じるようにする。
医師としてたくさんの患者さんの死に接してきた。でも、自分が死ぬリスクはなかったから、真の意味での共感はできていなかったのかもしれない。
マスクのフィッティングが甘い気がして、気になって仕方ない。そんなことを考えながら患者さんと対面する。かなりツラそうだ。見えない敵と、24時間絶え間なく戦い続けている。
息ができない。苦しい。でも、喋ると苦しいので、そんな言葉も吐き出せないのが、空気で伝わってくる。それに、無理に話せば咳が出る。咳のたびに、自分の身がひるむ。それが、患者さんにも伝わるし、患者さんも自分もツラい。細かい話は電話でいいよ、と一言残してくれた。診察だけして、外から電話で話をするよう提案してくれたのだ。
とってもツラい思いをしているのに、気を使わせてしまった。
でも、臨床試験の話をしなければならない。未だ、有効な治療法が見つかっていないからこそ、科学的には臨床試験が必要だ。でも、「有効な治療法がまだわかっていないので、、、」と言いかけて、言葉につまった。
明らかに患者さんの空気が、恐怖で震えている。それが肌身に伝わってくる。無力感を感じる。退室後は、面会できなくて家で不安のなか待っている家族に報告する。質問ぜめだ。家族が苦しんでいるのに、すぐそばにいてあげられないのはどんなに悲しいことだろうか、、、
車の数もすっかり減り、パトカーがそこかしこに走る静かな街を帰る。
家族を感染させたくないので、家に帰るとすぐに着ている物を洗濯機に投げ入れ、シャワーを浴びる。悲しみ、無力感、恐怖、そして医師であることの意味。たくさんの患者さんの喜びも死にざまも、そして託された思いも、全てすくい上げるつもりで生きてきた。
自分は、患者さんたちと同じくらい一生懸命生きられているのだろうか?
いろいろな考えを浄化して、心を落ち着けてシャワーを浴びると、子どもからの手紙が置いてあった。
"Dad, you are the hero of my life!"
無邪気に書かれたその言葉に、涙が出そうになる。
「パパはヒーローなんかじゃないよ」
言いかけたところで、外から、夜7時の定例となった、Clap for Our Caresの音が聞こえてきた。
見ず知らずのフロントラインで働く人のために、みんなで拍手したり、音を出して凱旋してくれている。
戦地に行ったわけでもない、患者さんに何か特別なことをしてあげられたわけでもない。でも、人間には、一緒になって困難に立ち向かう本能がある。
これは、みんな誰かのヒーローになんだ、という意味なのかもしれない。心の中で言い直した。
「ヒーローになるよ、未来のために、もっといい世界にしようね。そして、ありがとう。」
パンデミックは今回で最後ではない。次はまた100年後かもしれないし、あるいは数年後かもしれない。コロナウイルスは強制的に物流と人のつながりを大きく遮断した。まるで、人間とその社会の在り方に問いかけているようだ。地球・自然の、自浄作用なのかもしれない。
そして、今のところ決定打となるクスリがない。もちろん、レムデシビルやアビガンが効くのかもしれない。それを求めることは大事だ。でも、クスリだって物流で成り立つ。『もしクスリがない』世界が来たとしたら、コロナだけでなく、一体どれだけの病気が悪化するのだろうか?クスリに頼っていた世界が、音を立てて崩れていく、そんな予感もする。
だからこそ、クスリに頼らなくて済む、人間本来の力を、日々の生活の中から引き出すことが大事だ。現代人が患う感染症以外の多くの病気が、生活習慣の結果だ。食事、運動、睡眠、ストレス、嗜好品、人間関係、そして体内外の環境。そのかなりの部分が、個人の選択肢で決定される。個々人の選んだ行動の結果なのだ。遺伝の影響はもちろんあるが、思ったよりも少ない。研ぎ澄まされた習慣と人とのつながりが、幸せに生き延びる未来を産み出すのだ。
コロナで気づかされる、健康であることのありがたさ、人とのつながりの大切さ、そして生きることの意味。
今日がもし最期の日だったとしたなら。
最期に一緒にいたい人は誰だろうか。
自分はみんなにどんな風に覚えていてもらいたいのだろうか。
自分が紡いできたいろいろな人の想いを、どうやって未来につなげようか。
子ども、人類、地球の未来はどうなっていくのか。
一日一日を一生懸命、真剣に生きて、それが未来につながっていく。そういう人をたくさん集めて、みんなで助け合える世界にしたい。
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