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妄想昭和歌謡 し 「潮どき」五木ひろし

昭和53年 歌 五木ひろし 作詞 岩谷時子 作曲 中村康士

昭和歌謡曲を席捲したであろう五木ひろしだが、デビューしてヒットを連発していた頃は小学生だったのと、演歌っぽい別れや男心女心という世界にいい顔しない家だったせいか、巷でどんなに聞こえようが見えようが正面から受け止めたことはなかった。いたらよけて歩く車みたいな感覚だ。小学生は自分では運転しない。

まあ自分には関係ないと思っていたけど、ある日耳にした曲がひどく引っかかった。78年の曲なので中学生だったのか。

そうね 感じていました
背中に何故か 冷たい視線を

ここがおんなの 潮どきなんだわ
私きれいに身を引くわ


はあ?相手が冷めたからって身を引くのがきれい?
何を言ってるんだろう。そんなんだからつけ込まれるのだ、と恋愛経験もへったくれもない中学生の私だが腹を立てた。

心変わりされてもまだ好きなことを歌った曲はたくさんあって、それはそれで未練がましいと昭和のJCは思ったけど、本人が好きだというなら仕方ない。しかしきれいに身を引くなどと美談にされてはたまらない。

今改めて歌詞を読むと、決してすんなり喜んで身を引くと歌っているわけではないことはわかる。作詞の岩谷時子さんは「愛の讃歌」の訳詞や郷ひろみの「男の子女の子」などバラエティに富んだものを作詞している。耐える女をただ美化しはしないだろう。
かなり逡巡し辛い気持ちを押し殺している。その身を切る辛さを歌っているのだろう。

だとしても「きれいに身を引く」ことがいい女であるという社会通念はその頃確かにあって、そう言い聞かせることで成り立つ女の価値を云々することはあっただろう。

でもこの価値は他人にとって都合がよくても、自分にとっては散々だ。

「私、身を引いて良かったのだわ。女はわきまえなくてはいけないのよ」
と思ってみたところで、男の邪魔にならないよう引き際がいい女には、この先都合のいいところで引いてくれると見込んだ男ばかりが近寄りそうだ。

何十年か後、男から
「あの女の引き際は良かったなぁ、次の何だっけなぁ、名前は思い出せないけど次の子、あっちの方が若いから目移りしてちょっかい出してたら、ちょっと邪魔くさくなってきたと思ったところで、自分から距離を置きやがった。本当に(都合の)いい女だったなぁ」
などと回想されてもうれしくも何ともない。
「でもあんまり潮どきをわきまえ過ぎて身を引かんで、もうちょっと粘っていてくれても良かったのに。名前何だっけ?次の子。若いだけあって太ももは良かったけど、部長の親戚の娘とお見合いするっていうのがバレてからは、ギャアギャアギャアギャア。噂になってお見合いも立ち消えになったからな。あれさえなきゃもっと早く出世できたかも。んなことならあの引き際いい女、あれこっちも名前思い出せん、まあ‘’潮どき女‘’の方が順番が後だったらすんなり部長の取り計らいで・・・いや‘’太もも女‘’に気兼ねなんてしないで、数回の浮気くらい許してくれたら、あの見事な引き際をお見合い前に発揮してくれたら、うまくやれたに違いないのに。結局飛ばされた赴任先で女房をもらうことにしたけど。部長の親戚の娘は安田と結婚してなあ。俺より先に昇進しやがって、安田。でも二人の子はまあちゃんと育ってくれたから女房の美佐子には感謝しないとな。おーい美佐子、美佐子。‘’潮どき女‘’と‘’太もも女“の名前は何だったか覚えておるか?」
などと、男の方は老いさらばえて認知機能は低下し、なお男女関係の都合のいいとこだけ反芻していたらどうする。
義務で様子を見に来た娘は
「塩?モモ?焼き鳥屋で飲みたいかもしれないけど、食事療法でコントロールできなきゃ白内障で見えなくなるって言われてるのに、お父さん何言ってるのよ。熟年離婚して10年も前にお母さんが出て行ったのも忘れて、美佐子って私を呼ぶってやめてよ。頼まれて来たらこれだもの。でもお母さんをこれに付き合わせるわけにはいかないしね。あれだけ我慢してやっと離婚できたんだから」
などと言っていそうで心配だ。

しかしその記憶だけで今聞き直してみると思った以上にずっとアップテンポだった。もうちょっと押し殺した情念のじっとり系の歌だと思っていた。

Wikipediaには何と、「横浜たそがれ」や「夜空」などのメガヒットだけではなく何とこの「潮どき」のページもあった。
そこに書かれていることは興味深い。

「振り付けに特徴があった初期の五木演歌の中でも特に振りが大きく、右腕で野球のボールを投げるようなポーズがあった」

あれか。ものまねのあの右拳を振るやつか。

これを若くしてもっと腰をひねってノリノリを想像してほしい

と思って以前夜ヒットの動画を見つけて確認したら、拳振りよりツイストみたいな腰の左右振りに目が釘付けだ。え?こんなポップを狙ってたの?二人という歌詞の時には二本指で宙をなぞったりして、いったいこれで何を伝えたかったの?という気分になった。
西城秀樹が大きなふりで踊るのはわかるし、西郷輝彦でもまあわかる。でもいくら当時若くても五木ひろしが腰を振るのはどうも。
いや、そう見えて実は歌詞の一部の旧弊さをテンポやこのクイクイダンスで中和させていたのか?
わきまえて身を引いた女がしんみりしていると身投げでもされそうで後味が悪いが、こんなノリノリで歌って踊れるなら大丈夫な気もする。
中学生では気づかなかった。

やっぱり単純ではないな、この世界。

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