セルフライナーノーツ。赤裸々、恥の上塗り。
自分の過去曲を振り返ろうの会。
煙草中にての会。
煙草中にて
湿気ったタバコ咥えながら
歩く週末は繁華街
時化た面と死んだ目
踊る若者はクラブ通い
あぁ、なんか良いこと無いかなぁ
なんて呟いてみたって
パチンコの玉すら出ないや。
明日もバイトだったな。
馬鹿みたいだ。
馬鹿みたいで、情けないな。
狂った前髪伸ばしながら
歩く終末は繁華街
狂ったままの足取りで
踊る若者はもういない
馬鹿みたいだ。
馬鹿みたいで、情けないな。
この湿った街の事情は
俺にはよく分からないけど
踊り狂った若者が皆
明日に生きてるとは思えない
「この不景気ですから誰も
なにかと不自由しますね」と
分かったような口振りの豚
明日には食卓に並ぶのに
演奏中にてというアルバムを締めくくるこの曲は、ある種スリーピース時代のアイドルトークの完成系と言える曲だと思います。
演奏中くらいは黙って聞いててくれ。そんな願いが込められています。
俺は少し前まで難波に住んでいて(居候していて)、難波ってクラブとかが沢山あるんですよ。そこには夜中でも沢山の人が居て、わざわざ並ぶ人もいたりして、
俺は仕事終わり、24時が過ぎた頃にクラブの前を通ると、すごくやるせない気持ちになるわけです。
お客さんが数人しかいないライブハウス。もしかしたら演者の方が多いんじゃないかみたいな公演の日に出勤して、その帰りにクラブに並んでる人を見ると、わざわざ0から1を作って誰かに何かを伝えようとしているバンドマン。ロックバンドは一体なんのために存在しているんだろうと思ってしまう。もちろんクラブのDJを否定しているわけではないし、俺はクラブに行ったことがないから想像の範囲でしかないけど、どうしても俺はバンドをしているから、考えてしまうんです。
バンドに救われている人たちがいます。この世の中には。クラブに救われてる人たちもいるでしょう。でも俺は、ロックバンドでしか救われない不器用な人を愛したい。そんな人たちを大切にしたい。そんな歌を歌いたい。
言葉にすればとても陳腐かもしれませんが、俺はわざわざ440Hzとかいうよくわからん数字に囚われて、全員が絶対に微妙に違うチューニングで不器用に鳴らすその音で、必死に何かを伝えようとするその姿勢。ロックバンドという概念に愛を感じます。
音楽なんてものは聞きやすくしようと思えばピアノを入れた方がいいんですよ。絶対にチューニングが狂わないんだから、コードでいいからピアノを鳴らしながら、ボーカルもピッチ補正をした方がいいし、ライブだったら極論初音ミクやそういう音楽ソフトに歌わせた方がその音楽、メロディは相手に伝わりやすいんです。
その方が絶対なんですから、
でもそれをしない理由、ピッチがずれていても、チューニングがずれていてもギターを鳴らしてベースを鳴らしてドラムを叩いてバンドをする理由ってのは、そこに感情や感傷。思想や思考があるからなんじゃないかなと思います。
正直な話、言葉で伝わることならMCで言えばいいんです。その方が端的で伝わりやすいから。「俺はこう思ってる」ってのをわざわざ曲にする必要性を俺はあんまり感じません。
じゃあなぜ音楽や小説、漫画や映画などの創作物が存在するかと問われれば、答えのない感情や、言葉にできない感傷があるからだと思います。
「分けられないものを明確に分けた途端に消えてしまうものを魂という」
と言った人がいました。
音楽もその一つだと思います。
俺にとって煙草中にてという曲は、意味を明確にした途端に消えてしまうものです。
駄文、散文。失礼しました。
煙草中にてでした。