犠牲で成り立つ優しさ
優しいに基準はあるのか。
あの人は優しい人、こう考えるのが優しい人、こう感じるのが優しい人、そんな事を聞くことがあるが、何をもってそれらが優しいとされるのか、いまいちピンとしない。
「優しい」は善良な行為とされているけど、本当にそうなのかも怪しい。人を思って掛ける言葉、場の空気を読んでとる行動、よりレベルの高い配慮や気遣いを求められる今の時代で、優しくなるのは難しい。
気を遣う事と優しくする事は別で、純粋な人と優しい人は別だと思う。自己中な世の中に都合よく「優しさ」なんて名付けられて「優しい人」とされているだけだ。私自身、本当の優しさが何かまだ分からないけど、これだけは言える。世界にいる優しい人の正体は大体が「憶病な人・幼い人」であると。
周りの目を気にして、自分の見え方を気にしているから他人に気を遣ってしまう、憶病な人。
目の前の事実に夢中で、周囲の声や別の視点に気付けない、幼い人。
同じ学科の子が急に居なくなった時、周りの子達が言った。
「あの子はいつも優しかった」「良い子だった」
「優しすぎた」
違う。きっとそんなんじゃないんだ。
いつも気を張って、周りを気にしてた。繊細で、人の言動に敏感だった。会話では「ごめんね」と「そんなことないよ」をよく使っていた。
周りばかりを気にして、自分の限界に気付けなかった。自分を動かす糸が切れた、だからあの子は消えた。自分を蔑ろにしたから。
自分を削って他人を気にするのが優しさなのか?
絶対に違う。彼女の自己犠牲を「優しい」なんて言葉で正当化するな。
犠牲の上に成り立つ善意を優しさにするな。
心の犠牲を当たり前にするな。
「優しい人」で、彼女を片づけるなよ