短編小説「夜毎の来訪者」
「ただいま」
いつものように、私は深夜になってようやく帰宅する。昼間に行動するのは苦手で、夜を中心に生活する今のスタイルが私には合っている。玄関に入ると、それだけでほっとする。ここが私にとって唯一の安息の場なのだ。
しかし、今日は様子が違う。鼻を突くような嫌なにおいが部屋中に漂っている。消毒液に似た刺激臭が充満していて、思わず顔をしかめた。いつの間にこんなに強くなったのだろう。考えてみれば、家主の彼は最近、新しい掃除用品を頻繁に使っているらしい。それが原因なのかもしれない。
そう、正確には――ここは彼が借りている部屋だ。私は少し事情があって、間借りという形で住んでいる。もっとも、お互いの生活リズムが合わないため、めったに顔を合わせることはない。彼は朝早くに出かけ、夕方には帰ってくるが、その時間帯には私は眠りこけている。一度くらい、きちんと挨拶をしたいと思うのだが、どうもうまくいかない。
とはいえ、まれに台所で鉢合わせることはある。私が何かの気配を感じてふと振り向くと、彼が冷蔵庫を開けて飲み物を取り出している、という具合だ。
「あっ……」
お互いに声を詰まらせ、ぎこちなく動きを止める。私は慌ててその場を離れるが、どうしても男の人には緊張してしまう。大きな体や急な動きが苦手で、身構えてしまうのだ。彼がこちらを探るように視線を送ってくると、妙に居心地が悪くなる。結局、気まずさを隠すようにそそくさとその場を後にした。
最近、彼が部屋の隅や棚の下などにトラップを仕掛けているらしいという噂を耳にした。確かに、彼は神経質なところがあるし、このところ家じゅうに不穏な薬品臭が漂っている。もしかすると、私の存在が疎まれているのかもしれない。
——とはいえ、私にも事情がある。この部屋を出て行くわけにはいかないのだ。最低限の安眠と食事が確保できる環境を、私はそう簡単には手放せない。昼間に動くのは体質的に難しく、夜になると本格的に食欲がわいてくる。
家主の日常を邪魔するつもりはなく、なるべく物音を立てないように気を配っている。しかし、彼が本気で私を追い払おうとしているのだとしたら、いずれ折り合いがつかなくなるだろう。そのときはこの部屋を諦めるしかないのかもしれない——そう考えると、胸にひやりとした不安が広がる。
ある夜、どうにも我慢ができないほど空腹で、思わず台所をのぞきこんだ。すると、ふわりと甘い香りが漂ってくる。小さな容器を見やると、まるで果物を練りこんだかのような濃厚な匂いが鼻をくすぐった。こんな“ごちそう”を目にするのは珍しい。
——だが、何かが引っかかる。甘さの奥に、かすかな苦味が混ざっているのだ。嗅ぎ慣れない成分が鼻を刺激する。怖いもの見たさで容器に近づいてみるが、急に廊下からドタドタと足音が聞こえた。
「まずい……」
反射的に体を翻し、暗がりへと退避する。彼があわてて明かりをつけ、こちらを探しているのがわかる。なんとかソファの下をすり抜けてベッドの下へ潜り込んだ瞬間、背後で何かが宙をかいたような音がした。間一髪のところだった。
やがて夜が白み始めると、私はいつもの隅っこに身を落ち着けた。頭がずきずき痛むし、心臓はまだ早鐘を打っている。こんな生活は正直きついが、ここ以外に行くところもない。彼に嫌われているとしても、今の私にできることは限られているのだ。
彼がどう思おうと、私はただ生き延びたいだけだ。この狭い暮らしが続く限り、私には必要最低限の場所さえあればいい。それでも、ひとつだけ願うことがある。
——彼の視線の中に、私が存在しなければいいのに、と。
いつかは追い出されるのだろうか。それとも、彼が諦めてくれるだろうか。答えはわからないが、私には私の都合がある。この体質を変えることはできないし、壁際の狭い隙間が私の安息の地であることに変わりはない。
彼の生活リズムとは合わないが、それも仕方がない。人間のように昼間働き、夜ゆっくり眠る暮らしなど、私には不可能なのだから。
だって私は——
——この家の暗がりを住み処とする、ごく普通の“ゴキブリ”だから。