受験は課金ゲーか?
最近、「受験は課金ゲーである」というのが定説となってきている。
つまり、受験という戦争で勝ち残るために1番重要なのは、本人の努力でも才能でもなく、経済力だというわけだ。
思い返してみれば、私は間違いなく課金された側の人間である。
親に高い塾代を払ってもらって中学受験を突破し、私立の中高一貫校に入学。
私立の高い学費を6年間も払い続けてもらいながら、中学生の頃から塾に入って勉強していた。
大学受験の時も、通期のものとは別に発生する夏期講習・冬季講習代、参考書代、受験費など諸々全てを嫌な顔せず工面してくれた両親には感謝しかない。
そんな「された側」の私から見て、「受験は課金ゲー」という主張は反論する余地がないくらい正しいと思える。
だが、私はこの主張を、世間一般に理解されているような内容としては受け取っていない。
「勉強」には、「量」と「質」の2つの側面があり、一般的に課金される対象は「質」の方だと言われるだろう。
つまり、お金をかけるほど質の良い教育が受けられて、質の良い勉強をすることができる。一方、勉強量は個人の努力に依存するから、課金要素はない。
しかし、私は課金されるのはむしろ「量」の方であり、「質」ではないと考えている。
例として、私立中高一貫校と公立高校の差を考えてみる。
一般的に、中高一貫校は進度が速く、公立校は遅いと言われる。
私が通っていた学校では、数学ⅠAⅡBの範囲は高校1年までに一通り終わっていたが、公立校では高校3年にならないと終わらないらしい。
同じ授業時間に対して進んだ量が違うのだから授業の質が違う、とも言えるが、よくよく考えてみるとそうでもない。
一貫校であっても、他の学校と基本的に教える内容は(当然)同じである。授業形態も、教師がテキストを解説→生徒が問題を解く→問題解説、という何の変哲もない普通のものであり、教師の解説も特段凄いものでもない。そもそも、受験レベルでもない、文科省できっちりカリキュラムが決められているような中高数学の教え方で差をつける方が難しいのである。
こう考えてみると、一貫校と公立校の違いは、「質」ではなく「密度」の違いに過ぎないことがわかる。つまり、同じ授業コマ数に対する個人の勉強量が違う。
例えば、公立校で数学の定期試験に向けて10時間勉強する人がいるとしよう。この人が一貫校の定期試験に向けて公立校の時と同じくらいの成績を出そうと思ったら、単純計算で、6年/4年=1.5倍、すなわち15時間勉強する必要がある。
勉強量に課金すると言ったのはまさにこの違いで、同じ子供に私立課金すれば、5時間多く勉強してくれる。
一貫校の生徒が中学〜高2くらいまで通うような塾(鉄録・SEG・平岡等)も同じような仕組みだ。
そのような塾は受験のための勉強というよりかは、むしろ普段の学校の勉強の延長線上の内容を扱うものである。そこに通わないと学べない内容は基本的にない。
質の良い授業を受けるためではなく、子供が1コマ3時間分は学校の授業とは別に勉強してくれるから、課金するのだ。
もちろん、課金したからと言って子供が必ず勉強するとは限らない。
私の同級生にも、塾に入ってはいるがサボり気味で、学校の授業も聞かず勉強もしない人は何人かいた。
そういう意味では、「量」に課金しているというよりかは、「強制力」に課金することで間接的に「量」を増やしていると言える。
だから、課金しないと課金している人に勉強量で追いつけないということはない。
(数学の例で言えば)公立校だろうが、塾なしだろうが、週に+5時間くらい自分で先取り勉強すれば、一貫校&塾ありと遜色ない成績を出すことができる。
しかし、それが難しい。
公立中学校の時から、来たる大学受験に向けて進んで自習できる人がどれくらいいるだろうか。
数年に1人だけ東大に進学するような高校で、高校一年生の時から東大に向けて勉強できる人がどれくらいいるだろうか。
そのような環境では、勉強に対する「強制力」がないから、受験が目前に迫る高3まで勉強に意識が向かないだろう。
進度が速い、塾にも入る、東大に入った先輩が身近に何人もいる、「早慶が第一志望w」みたいな風潮、etc…
課金すれば上記のような「強制力」を得られ、その「強制力」のもとで被課金者は中学の時からコツコツ勉強する。
高3になって周りを見渡せば、被課金者と非課金者の間に圧倒的な勉強量の差が生まれており、「受験は課金ゲー」となるのである。