映画真夜中乙女戦争【ネタバレあり感想】 「絶望は、光になる。」の私なりの解釈
映画「真夜中乙女戦争」もう既に2回観に行った。
2回中2回、観終わったあとに放心状態になった。
私は、「私」みたいな大学生活にすこぶる憧れてるんだな、と、嫌でも思い知らされた。
「私」は、バイトも上手くいかず友達も佐藤以外はゼロ、授業に意味を感じられずに退屈で辟易としている。鬱々とした、悶々とした日々を過ごしている。
それでも、「私」には、身を焦がすような、心躍るような「黒服」と「先輩」との出会いがあった。
「私」は灰皿に油を注いだ黒服を目撃し、奨学金の書類を投げ捨ててまで黒服を追いかけ、車に乗り込んだ。そこから始まる「私」の学生生活はまさしく現実からの逃亡だった。
黒服や常連たちと映画を観る時、チェスをする時、花いちもんめをする時、音楽に合わせて踊り狂う時、大学の屋上からビラを撒く時。
あんなに死んだ目をしていた「私」の表情にはしっかりと高揚があり、恍惚があり、陶酔があった。
確かに、人生を諦めきれていない人の顔だった。
「先輩」と話す時の「私」は、ちゃんと等身大の大学1年生18歳の、まだまだ子どもの目をして、ところどころ無邪気さが垣間見えて、それが痛いほど切なかった。
かくれんぼ同好会の新歓パーティーであんなに戸惑った表情を見せていた「私」と、真夜中乙女戦争前夜に『Misty』を歌い上げる「先輩」を見つめる「私」では、人が変わったかのようだった。
そして「先輩」もまた、何も諦めきれていない「私」の顔に惹き付けられた1人だった。
コメンタリーでの発言や自分なりに調べたことを踏まえつつ、思わず唸ってしまったポイントをいくつか。
①「先輩」から送られてきたLINEスタンプの謎
LINEを交換してすぐ「先輩」から「私」に送られてきたのはこのスタンプ。1番最初にこのスタンプが送られてきたら私は頭を抱えてしまう。実際私の高校時代のクレイジーで知られている文芸部の先輩はこのスタンプを多用してきて随分困った記憶がある。
気になってちょっと調べると出てきた答えは『プランキング』だった。
《プランキングとは、数年前に海外で流行った遊び。変わった場所でうつ伏せになり、写真を撮ってSNSに投稿するのが海外では流行していた。ユニークな試みとして注目が集められる一方、奇抜な写真を撮るために危険な場所で撮影する人も現れ安全への注意も呼びかけられていた》
ハッとした。戦慄が止まらない。
「先輩」には、割と早い段階から「私」の頭の中はお見通しだったのではないだろうか。
「先輩」にとっては、「黒服」と「私」、それから常連たちのしかけたいたずらは、SNSで話題になることを狙った行動に見えていたのかもしれない。実際「先輩」は「私」がコーヒーをぶっかけられたTikTokを見ていたし、自転車のサドルがブロッコリーになっていた時も学生たちはみなスマホを構えていた。
「先輩」の中では、まだ『いたずら』にすぎず、まさか自分が巻き込まれ、全てが壊される恐ろしい計画の序章だとは、そこまで深刻には捉えていなかったかもしれないが、プランキングのスタンプを送るのはさすがにセンスがすぎる。もしかするとこの段階で、「先輩」は「私」に悟ってほしかったのかもしれないし、はたまた一縷の望みを託したのかもしれない。
②チューニング音の鳴るタイミング
小、中と吹奏楽部だった私にとってチューニングとは『ズレの許されない時間』だった。トランペットの私はべーの音をひたすらチューナーの真ん中に合わせることに必死で、チューニング管を微妙に抜き差ししながら何とか真ん中に合わせていた。ズレると指摘される。はみ出すことは許されない。
コメンタリーによると、チューニングの音が鳴るタイミングはいわば『運命が変わる時』。
そこにズレの許されない整いきった音が流れる。
「私」にとって『運命が変わる時』というのは『人生の狂い時』。
そこに狂いのない音が鳴るという矛盾。
ただのチューニング音なのになぜあそこまで不気味なのか不思議だった。でも冷静に考えると、あんなに必死に何十人もの音を合わせるというのは不自然で怖いことかもしれない。
③最悪のハッピーエンド、最高のバッドエンド
私はバカなので1回目を観終わったあとすぐには理解できなかったけど、「先輩」がラストシーンで東京タワーにいたこと、本当に安堵した。
常連たちのアジトで「黒服」がダーツを投げながら語るシーンで、『東京タワーは爆破しないって言っただろ』『東京タワーは遺産にする』(どっちも超ニュアンス)と言われていたことを思い出した。
東京タワーは爆破されないので、「先輩」は爆破の危機からは逃れられた。「私」は電話越しにそれを知ることになる。
でも、果たしてそれで良かったのだろうか?
この先「私」と「先輩」が再び顔を合わせる可能性はほぼゼロに近い。あろうことか「先輩」は『私がいなくても生きていける?』と「私」に問うたほどだ。
東京タワーが残り続けるということは、「私」にとって「先輩」が残り続けるということだ。
それは果たしていい結果と言えるのだろうか?
私は最初『最悪のハッピーエンド』がしっくり来ていたが、2回目を観終わったあと『最高のバッドエンド』がしっくりくるようになった。どちらも正解で、どちらも不正解だと思う。
いいなあ、私もこんな大学生活を送って、こんな人達に出会いたいなあ。
鑑賞後は30分くらいこの気持ちに支配される。
今からでも遅くないだろうか。本当にこれから先、こんな人達に出会えるのだろうか。
私は都市を爆破できないどころか、自転車のサドルをブロッコリーに変えることもラジコンカーを校内に走らせることもできず、つまらない授業をする教授に意見することもできない。それどころか1人で奨学金の書類を投げ捨ててまで放火の犯人を追いかけることも、1人でサークルの面接を受けに行くことも、新歓パーティーの扉を開くこともできはしない。そんな勇気はどこにもない。
それでも、こんな世界を生きていかなければいけない。
何も変えられやしない自分のまま、特に大きな変化も起きず、起こそうともせず、受動的な世界を過ごしていくしかない。
絶望だ。この上ない絶望だ。
でもそれは、一生能動的な人達の巻き起こす痛々しい刺激に影響され続けるということだ。例えば、この映画のような。
それはもしかしたら、一種の希望、すなわち光なのではないだろうか。
『絶望は、光になる。』私はこの言葉の意味が分かるまで生きていく義務がある。
どうしようもない世界の終わりを待ちながら。
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