あの梨の香水
梨の匂いの香水を使っているけど、梨が特段好きなわけじゃない。
そのことはずいぶんと長い間、私の心につかえというほどではない後ろめたさを抱えさせていた。
梨は香りからして瑞々しく、清らかに甘い。もし梨を見たことがなかったとしても、きっと香りを嗅いだだけで白い果肉を、溢れる透明な果汁を想像できる。事実、梨はそういう果物だ。
だけど食べてみると甘さを押しのける酸っぱいえぐみが気になる。芯の近くの硬い歯ざわりが野暮ったい。甘さもジューシーさも真実だけど、それ以上にえぐみに幻滅してしまう。
そう、勝手に裏切られたような気持ちになってしまうほど、梨の香りは魅惑的なのだ。
だから良いとこどりをすることにした。香水瓶を何本も空けている私は、梨を年に数個と食べない。香水を吹きつけるたび、本当の梨をぽいっと捨ておいているような気持ちに、少しだけなる。
先日、友人のおばあちゃんが梨をくれた。お邪魔していた帰りがけに持たせてくれたのだった。
「りりちゃんのおうち、梨食べる?」
「はい。みんな好きです」
嘘ではない。私以外のみんなは好きだ。
ありがとうございますと頭を下げ、梨の入ったビニール袋をぶら提げて帰った。家に着き、キッチンの母に梨を手渡したその足でお風呂に入った。
お風呂から上がると、梨はさっそく切られて皿に盛られていた。せっかくいただいたから、せっかく切ってもらったからと手を伸ばす。正直、義理のひと口だった。
しかしこれが目が覚めるほどおいしかった。
白い果肉は歯切れよく、最初に感じる味そのままにずっと甘い。火照った体に冷たい果汁が沁み渡る。香りから思い描く理想の梨がそこにあった。
思わず友人に頼み、おばあちゃんに梨の品種を訊いてもらった。おばあちゃんは「忘れちゃった。今度買う時に見ておくネ」と返事をくれた。
今晩もお風呂上がりに梨を食べた。おばあちゃんの梨ではない。自分で買ってきたスーパーの梨だ。案の定、味はちょっとえぐかった。やっぱり私は依然として梨好きは名乗れない。
だけど、好きな梨はある。
これからは私、あの梨を思い浮かべて香水を吹きかけるのだ。
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