無職、贅を尽くす。 #KUKUMU
ハレルヤ、無職の日々
2022年9月末日、一身上の都合で会社を辞め、私は無職になりました。
義務教育を済ませ、高校を経て、四年制大学を出て就職する。ありがちな道をなんの変哲もないステップで歩んできた私。
そんな良くも悪くも浮き沈みのなかった私が、今や無職です。
咳をしても無職。風呂に入っても無職。庭先を掃いても無職。ああ、無職無職無職。なんとずっしりくる言葉でしょう。口にすると後ろめたくて、宙ぶらりんで、それでいてちょっと……いえ、かなり、うっとりする響き。
こんな機会もなかなかないから、なんて言い訳をしながら、私は少しの間だけ、魅惑の無職デイズの謳歌を、自分に許しました。
朝目覚めたら枕元の本に手を伸ばし、目が疲れたらそのまま丸まって昼寝。目が休まったらまた物語の続きを追い……日がな一日読書に明け暮れます。
特にミステリ小説にはどっぷり没入しました。登場人物のプロフィールをエクセルにメモしたり、アリバイをエクセルにまとめてみたり、犯行現場の間取りをエクセルで作ったり。推理が当たることはまぁありませんでしたが、悩みに悩んだ分、明かされる真実にはひとしお度肝を抜かれたものです。
いかんせん一円も稼いでいないので、お金を使うのには気が引けます。そんな事情を鑑みても、読書は最高の過ごし方でした。何しろ家にいながら、世界の果てへでも旅することができるのですから。
では読書以外の娯楽にお金を一切使っていなかったかというと、それがそうでもなくて。
仕事をしていた頃と変わらず、楽しみつづけた贅沢が一つだけありました。我慢できない、唯一の大盤振る舞いが。
それはお気に入りの喫茶店で、おいしい紅茶とスコーンをいただくことです。
姫とじいやと白い楽園
無職のくせに気取りやがってとお思いでしょう。自分でもそう思います。だけどなかなかどうしてやめられない。ジャンキーなのです。
にぎやかな街の大通りを一本入った小道に、その喫茶店はひっそりと佇んでいます。灰色の古いビルに両脇を固められ、少し肩身が狭そうに。
白い外観に、白い内装。どこもかしこも真っ白の、生活感のない空間です。それでも無機質さはなく、どこか温かみさえ感じさせるのは、建物が木造だからでしょうか。
窓から射す陽光が床の白に反射して、もともと明るい店内が、ぽんわりと発光します。そのせいか、ここで過ごす時間はどこか神聖で幻想的です。
雰囲気にあてられて、私もすっかり姫気分です。椅子に浅く腰掛け、背筋をしゃんと伸ばして、指先を揃えたりなんかして。姫にスマホは似合わないので、本を広げて注文した皿がくるのを待ちます。平日の真っ昼間なので、店内は空いています。
じいや、もとい店員さんが紅茶とスコーンを持ってきてくれました。
白いティーポットに、白いティーカップとソーサー。そしてやはり白いお皿に載った焼きたてのスコーン。姫だろうが無職だろうが、これにはお腹がぎゅるりと鳴るってものです。
こんがり焼けたスコーンを手に取り、半分に割って、たっぷりのクロテッドクリームを載せます。そして大きくひと口。
さくり。
小麦の風味が鼻腔を抜け、自然な甘みが口いっぱいに広がり、ああ、なんておいしいの。
スコーンで少し渇いた口を、紅茶で潤します。ニルギリの味が、痺れるような熱さが、スコーンの余韻を洗い流します。
しかしながら、私がここに来て感じる贅沢の真髄は、インテリアでもスコーンでも紅茶でもありません。お冷のグラスです。
冷水をたっぷりと湛えた、雫のように下膨れなかわいらしいグラス。
そのガラスはとても薄く、前歯を当てて少し力を込めれば、簡単に割れてしまいそうで……
すっごい管理大変そう。こいつは家じゃ手に負えん。
コツンでパリンでございましょう。真似して家に置きたいけれど、一週間と保たずに割ってしまいそうです。
実は、前述の白いティーセット。こちらもあまりに素敵で欲しくなり、じいやに窯元を尋ね、家用に同じものを揃えました。
けれど純白であるがゆえに茶渋や口紅の色が沈着しやすく、ここぞという時にしか使っていません。使ったとしても、放置すると汚れが落としづらくなるので、飲み終わったら、何はさておきさっさと洗わないと気が済まないのです。
あの薄いグラスだって、持っていたらきっと、すぐに片付けないと気が気じゃなくなってしまう。
美しいもの、尊いものには手が掛かるんだなぁと、しみじみ思います。
管理する手間をかけず、責任も一切負わず、使うよろこびだけを享受する。なんて贅沢なことでしょう。お店のとことん白いインテリアをぐるりと見渡します。この場所だってそうです。
私がこの喫茶店で味わっているのは、スコーンや紅茶であり、繊細な食器であり、幸せな無責任 、放任という贅沢でもあるのです。
無職、楽園を出ていく。
無職とは、しがらみの一切を放棄し、消費のよろこびだけを味わう、とても贅沢な日々でした。
先ほど、尊いものには手が掛かると申しました。そしてこうも思います。その手間こそが尊さを磨くのだと。
喫茶店の真似をして揃えた白いティーセットは、たしかに気を遣う品です。まめに手入れをしなければなりません。
漂白剤に浸け置いて、水でよくすすいで、清潔なタオルでやさしく拭いて……すると青白くつやりとした肌が、新品のように輝く。その瞬間がとても嬉しい。あのよろこびは、まさしく手を掛けるよろこびです。
自分でティーカップを洗わない姫のお茶会は、まさしく優雅ではありました。そして同じように、何の手間も義務も持たない無職生活は、たしかに甘美でした。
だけど、それは最初のひと口、ふた口までの話です。背徳感は、おいしいけれど胃もたれする。
たまの贅沢を、思いっきり楽しめる生活。さしあたりは、そのために働いてみよう。
そうして私は無職をやめ、社会復帰をしようと思ったのでした。
文・イラスト:渡辺 凜々子
編集:栗田真希
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