飼い主の私ができること② 犬の目が見えないことは不便であるが不幸ではない
10年前に旅立った愛犬が、進行性網膜萎縮症で2歳で失明した当時のことを振り返りながら記しています。
確定診断後、飼い主として出来ることを模索し始めました。
動物医療センターにて
「あなたの犬は進行性網膜萎縮症です。これは治ることがない病気です。」と告げた動物医療センターの眼科医は、落ち込んでいる私に「犬は、私たち人間の様に視覚に頼った生活をしていない。飼い主のあなたがその状態を知ってサポートすることで幸せに暮らしていけますよ。」と言った。
不便であるが不幸ではない
遺伝の病気なので防げたのであろうが、うちの犬が不幸かそうでないかをここで語るつもりはない。
今、振り返って思うのは、不便であるが不幸では無かった、と思っている。
また、初めて迎えた犬が、この犬で良かったと思っている。犬と暮らす先入観が無かったので、普通に扱うことができたからだ。
ただ、犬の目の見える仕組みをきちんと学ばなければ、と思っていた。
暮らしの中で
よく風を感じていた。ドアが開いていれば勢いよく走るが、ドアが閉まっていれば、その前で立ち止まる。
テーブルや椅子の脚を器用に潜り抜け、活発さは以前と変わらなかった。
ただ、見えていないので床に置いた雑誌などには躓く。
床にはとにかく不用意に物を置かない様にした。
投げたボールは取りにいけなくなったが、代わりに音がするボールがお気に入りになった。
咥えながら、うるさいくらいピーピー鳴らすのが好きで、「もう今日は終わりね」と片付けると、片付けた場所がその都度違っても、その場所をよく覚えていて、背伸びして欲しがった。
また、階段は勢いよく登るが、下りは苦手だった。ただ、見えていなくても階段の上り下りは自由に出来る犬もいるので、うちの犬は、たまたま階段の下りが苦手だったのかもしれない。
ちなみに、ソファやベットは飛び乗ることも、飛び降りることも、難なくできた(犬、特に脚の短いダックスは、高さのあるところからの飛び降りは、椎間板ヘルニアを招くため本来NG)。
お散歩や外で
普段、私がいきなり触っても驚くことは無かった。
しかし、見知らぬ人に撫でられると驚くため、お散歩で出会った人が触ろうとするたびに必ず「目が見えていないので」と言わなければならなかった。双方の安全のためだ。
瞳孔が開いているので、目が大きくまん丸で愛らしく、よく声をかけられた。
お散歩自体にはあまり不自由しなく、目が見えている頃から、よく声をかけていたからか、右・左などの言葉と意味を覚え、また、段差は「ぴょんして」と声をかけると跳んでくれるので、外で躓くことは少なかった。
目が見えない犬と飼い主のサークル
確定診断から数ヶ月後。
「目の見えない犬と飼い主のためのサークルを立ち上げようと思うので、参加してくれませんか」と先の動物医療センターの眼科医から連絡があった。
飼い主としての想いや取り組んだことを当時を振り返りながら記しています。次回は「目が見えない犬と飼い主のサークル」に参加した当時のことを記そうと思います。お付き合いいただければ幸いです。