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死ぬということ

自ら死ぬということについて考えてみた。

世界の自殺率とか日本の自殺者数とか調べてみてからまた記事を書いてみようと思うけど、今日はなんだか辛いので思いのままを書く。

自殺を考えたことはありますか、という問いに人口の何パーセントの人たちがyesと答えるかはわからないけど、

私は確か22歳の時に精神を病んで2回程自殺未遂をした。

ODといって心療内科でもらった薬を大量に飲み、さらにお酒を大量に飲んで死のうとしたのだけど(当時は今より処方されている薬が強くて、でも私が飲んだ量では致死量には至らなかった)、

3日間意識を失っていて、気づいたら救急車で運ばれていた。

それからなぜか洗濯洗剤を大量に飲み干して吐いて倒れていたこともある。

でも、私が死に至らなかったのは死ぬための明確な方法を調べていなかったからというのが大きい。

「死にたい」というよりも「意識を失くしたい」という心理の方が正しく、とにかく生きて目が覚めている状態がものすごく苦しかったので、ひたすら逃げた。

本当に死んでしまった人たちは、はっきり死ぬとわかっていて死を選んだのだからその苦しみがどれほどだったかと思うと、とても悲しいし、せめて安らかな死後(死後の世界があるかは分からないけど)を迎えて欲しいと思う。

心からご冥福をお祈りします。

自殺するなんて、とか死にたいと簡単に言うな、とかよく耳にする言葉だけれど、自ら死を選んだ人たちがどれほどの苦しみの中で生きていたのかを、少しでも想像してみて欲しいなあと思う。

そして、心の弱さや心の病や何かに失敗して社会から外れていった人たちや、精神的・肉体的ハンデを負っている人たち、それからこれから問題になってくると思うけれど不況で仕事を失くす人や借金を負いながら生きなければいけない人、そういう人たちにどうか優しく手を差し伸べられる社会になって欲しい、と思う。

人に対して正しくあることや厳しくあること、働き者であり、ルールから外れることを許さない今の社会が、いったい何を産みだしているだろうか。

日本のGDPはこの何十年でちっとも上がってないし経済的にも停滞し続けているこの社会で、必死で働くことや正しくあることばかりを強制されて、どれだけの人たちが夢を持ち他人に優しく出来るのだろうか。

人に優しくあること、自分自身にも優しくあること、本当の意味で相手の立場に立ってものを考えること、

そんな根本的に一番大事な価値観が忘れられているのではないだろうか。

ストイックであることも時には厳しさも必要だけど、厳しい言葉を発していいのは、本気で相手の立場に立って物を考え続けてきた人だけだと、私は思う。

38歳になってもなお、まだ心を時々病むしその苦しさは尋常じゃないので、いまだに「死にたい」と思うことがある。

でも私が死なないのは、今私の周りにはごく少数だけど私に本気で思いやりを持って関わってきてくれる人がいるおかげだし、その人たちが私が死んだらどれだけ生きるのが辛くなるか想像したらもっと苦しいし、

それに何より、この社会で生きる喜びよりも生きる苦しさが圧倒的に上回って死んでいった人たちのことを思うと、その苦しみを想像すると、

私自身がどんなに苦しくても、なんとか生きようと思う。

知り合いでもなんでもないけどさ、その人たちの死を無駄にしてはいけないと思うのだ。

自殺とは、現代社会での戦死のようなものだと感じているので、

人の死を無駄にしてはいけない、と強く思うのかもしれない。



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