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自分の中の2人の自分、芸術って葛藤。

多重人格みたいなタイトルをつけてみた。

いや、私は実際多重人格みたいなところがあり、そのせいでかなりの葛藤と悩みを抱えて生きている。

自分の気持ちを整理するためにも、書いてみたい。

例えば、私は時々友達や親しい人と話をして、色々と共感し合ったり支え合ったりしたいなあと思う。

で、やってみる。

そうすると、例えば理解され共感されることもある。

嬉しい。しかしもう一人の自分はムカついている。

なんでかというと、共感されて喜んでいると自分がどんどんダメになっていく気がするから。反面、嬉しい。人間だもの。

例えば、全然理解されなくて否定されることもある。

そうすると、ムカつく。傷つく。でも反面、ホッとする。

否定され傷つくことは色々な意味で自分が新たな気づきを得るチャンスだからだ。

実際、アメリカかどこかの大学の研究によると、人間は否定され続けると、幸福感は減るが創造性はより伸びていくらしい。

なぜか知らないが、子供の時から褒められると嬉しくて反面嫌な気持ちだった。

私は、小さい頃から絵や小説や音楽が好きで、今はジュエリーデザイナー兼職人の修行中だ。若い頃はまずはお金を稼いで自立してキャリアを積まなければいけない、と思っていたので芸術家になる道は断念した。

自分には、無理だと思っていたからだ。私は絵も作文もそこそこうまいし、何度か県や市で佳作とか入選とかは取ったことがある。

でも、天才レベルの評価はされなかった。天才だったら、まずは県で一番かせめて2番くらいを取っているはずなのだ、でも結果はいつも佳作か入選止まり。高校に進学する時点で諦めていた。自分はその道を志しても無理だろう、美大に進学することすら諦めた。

両親は行ってもいいよ、と言ってくれたけど、美大は学費が高い、それに進学するのに予備校に行く費用もかかる。そこまでしてもらう程の才能も覚悟も自分にはなかった。

さて、大人になってなぜか営業マンとしてキャリアを積んで(芸術家になりたかったのに飛び込み営業とかテレアポとかしていた。自分でもへんてこな人生だと思うが、営業マンはとても楽しかった。)、仕事をバリバリしていたら病気になった。

その時はもう結婚していて、夫が病気の私を支えてくれていた。

多分、夫は私が本当は何かものづくりをしたいと思っているのに気づいていて、才能があるし、好きなことをやれば身体が良くなるかもと思ってくれたんだと思う、ある日言ってくれた。

「好きなことをして生きていいよ、お金は稼がなくていい。俺が支えるから」

ビックリした。戸惑って、自分にそんな権利はないと逃げた。

芸術家になりたいだなんて恥ずかしい。多分、99%の人は才能がなく、1%の人だけが報われる厳しい世界なのに。確率は実際わからないが。

世間から

「アーティスト気取りのヒモ、売れないジュエリー作家」

と後ろ指さされるに決まってるのに、そんな道を選ぶのは怖い。逃げたい。

夫の優しさが嬉しいし感動しているのに、その気持ちを100%受け入れたら、私は99%才能がないのに芸術家気取りの自分を認めなければいけなくなる。

半分逃げ腰で、言い訳しながら2年くらい、最初はジュエリーのデザインだけ続けてみた。面白くなって、今は自分の手で創りたくなり、職人の修行をし始めて3-4ヶ月くらい。病気で半分は休んでいて、それもいい訳だと自分を責める。

始めて自分でデザインして制作したジュエリー。とんぼ玉もオリジナル。今見ると作り自体はどうってことないのだけど、色使いとか必死で考えた。

私は、美大も出てなきゃデザインの仕事もしたことがない、芸術家としてはぴよぴよの雛みたいなもんで、売れたものもほんのちょっと。

でも、本気で絵や音楽やジュエリーや世界中の素晴らしいファッションデザイナーの作品が好きだ。必死で見つめている。だから知ってる。

芸術と商業アートの境目が何か。創作と模倣とは何が違うのか。

商業アートや模倣は、根本は人に気に入られ評価されるために作られる。それは作る人が評価され、社会で生きていくことが根本にあるからだ。それを否定はしない。

でも、芸術や創作の根本は真逆だ。自分自身も、世界の今の常識も徹底して疑い、誰にも創り出せなかった自分にしか創れない何かに挑戦しようとすること。だから、ほとんどの人は諦める。

だって大抵の場合は馬鹿にされ、評価されずに終わるのが目に見えてるから。手を挙げて進んで恥をかきにいくようなものだから。

天才とは、そんなことを微塵も気にせずに自分がやりたいこと、創り出したい何かしか見えていない人で、

天才じゃなくてもほんとに芸術家になれる人は、人目が気になって仕方なくなって自殺寸前までいっても、自分を貫ける人か、どちらかだと思う。

※あくまで持論です笑。

私は前者ではない。ということは、人目が気になる。人に評価されたいとも思う。馬鹿にされると死にたくなる。馬鹿にされればまだいい、気にもされない。でも誰かに評価されたいと思い始めた時点で、芸術からの逃げが始まる。

もうめっちゃくちゃな葛藤が心の中で起きる。

これで売れてたらまだいい。これでなんかの賞でも取れたらまだいい。

一生いきがってかっこつけて終わるだけの可能性が高い。

いや、メンタル弱くて突き詰めたらもっと体調崩すだけかもしれない。

でも、割り切れない。私の中の2人の自分が葛藤する。

多分、本気で取り組んでいるからだな、と自分を励ましてみる。人に励まされてはいけない、人に励まされた時点で劣化を認めることになるではないか。でも励まされたい、でもやめてほしい。

良いもの作りたい、自分にしか出来ないもの作りたい。でも人に喜ばれたい、褒められたい。でも褒められたくない、けなしてほしい。

どうしたらよいのだ。

どうやって誰にも責められても否定されてもないのに、

「お前は中途半端だ!」

という声から逃げられるのだ、だって逃げた時から私はもう芸術家にはなれない。やりたいことから遠ざかっていく。

世間は言う、2つの意見が頭の中で葛藤するから悩みが起きると。その通りだと思う。

だから、「人に認められなくても良いと諦めるべき」論とか

「中途半端な自分を認めて、優しくしてあげましょう」論とか。

でも、何か違和感があるのです。

多分、葛藤って良いものを産みだすから。残念ながら苦しめば苦しむほど、今まで見たことがないような面白いものが出来たりするから。そういう芸術家をたくさん見てきたから。

中途半端だ、悔しい、だからもっと頑張りたい、

そんな人が傍にいたら、周りの人も苦しい、暑苦しくて迷惑だし、友達にはなりたくない。でも良いものが出来たら、見たい、触りたい。

それが人ってもんじゃないだろうか。

コムデギャルソンの川久保玲と友達になんかなりたくない、ストイックすぎて自分が恥ずかしくなる。

でも、だからこそコムデギャルソンはすごい。

友達になりたくいけど、新しいものどんどん見せて欲しい。

ヴィヴィアンウエストウッドなんかファンキーで過激すぎて友達になりたくない、でもその生き様も、創り出した洋服たちもカッコよすぎてため息が出る。だってめちゃくちゃストイックだもん。

でも、癒されない!でも、好きだ!

私は友達になりたくないファンキーな芸術家たちを心から尊敬している。

私はそこまでにはなれない、わかってる。でも近づきたい。だから葛藤しながらも成長していくしかない。

私が出来る限界まで、面白くて綺麗なもの創れるようになりたいもん。

だから、仕方ない。でも、辛い。

これは愚痴か。身体もしんどい。メンタルもしんどい。人が許せないし自分が許せない。でも、それも大事な自分だ。

今日は特にコンディションが悪い。来週からはせめてジュエリー作りたい、少し療養して、頑張りたいなあ。



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