主体的に生きるとは?

 集中講義の最終日に寝坊した。幸先悪い。理由なき夜更かしをやめたい。手近な報酬にまんまと脳が支配されている生活をやめる。もっと主体的に生きるんだ。
 例えば茶碗を洗うのがどうしても面倒くさくて、ついに使える綺麗なコップがなくなって貰い物のコーヒーカップで麦茶を飲んだりすることをやめると言っている。これからは生きているみたいに生きるんだ。


 麦茶を飲むには小さすぎる



 集中講義は午後から行った。このまま行かないよりはマシだ。


 世にも苦手なグループワークだった。評価されることにちゃんと喜びを見いだせる、生きるのが上手そうな人たちとグループが一緒になった。アイデア出しから発表まで、その人たちが全て行ったのでぼーっとしたりうとうとしたりすることがその場でのわたしの役目となった。

 だめだ!全然主体的に生きられない!!当事者意識が薄い。
 そもそも、高校を卒業して全然勉強のやる気がなくなって、そうか、あれはわたしが頑張っていたのではなくて周囲からの同調圧力と母からの期待によってのみ、勉強する筆が走らされていたのかということに気がついて以来、自分の人生を生きるということが分からないね。
 長く助走をとったほうがより長くに跳べるって聞いた けど、あれ、今って助走しているのではないのか。もう始まってるんか。


まあいっか!とりあえずそこらへんに置いとくか




 ぼーっとするなか、隣の人が話しかけてきてくれた。数学科のオタクで、めっちゃ早口だったのがなんだか面白かった。彼の話を聞くためにぼーっとするわけにはいかなくなった。休憩明け、仮眠していたわたしを起こそうとしてくれていた。 優しいですね 自分で起きたけど


 オタクは早口だし、現実のギャルは自分の仲間以外には大体感じ悪い。
異論は認める。




***




 様々なことがあり、言葉にするのも違うかもな と思って一旦距離を置いた友だちのことを考えていた。


そいつのことを考える時間が増えたけどこの時間なに と思って勇気を持って連絡をとってみた。今度会うことになった。が、彼の言葉の使い方がどうしても気に食わない。
 これはどっちだ。彼のデリカシーに対する考えが甘いのか、わたしの求める言葉の精度の基準が厳しいのか。分からん。でも現にわたしは少し苛立ってしまっている。自分の感情の動きを見過ごすわけにはいかない。
少し落ち着けよ と言われて黙るおれさまの大脳皮質ではないだろうが


 だからうまいこと言って一旦会うのを取りやめにした。こちらから誘っておいて申し訳ないね という気持ちはある。
 

 普段の彼なら承諾してくれるのだが、今回はなぜか食い下がってきて意味がわからない。


 悩んだ末、会うことにした。もつ鍋を食べに行きたいことには代わりないので。
 ここで決着をつけるか。その日に見過ごせない違和感を感じてしまった場合、本格的にフェードアウトすることにすると決めた。

人の心とかあんまりないから、そんなことしなくてもすぐに切ればいいだろ とは思うけど、せっかく仲良くなったからもったいないな という気持ちもある。結局打算的であるには代わりないのか。

 
言語化が難しい。言葉にすることで思考の輪郭が明らかになるのも少し怖い。自分が望まなかった結果になるかもしれない。


 
 自分が考え過ぎて空回りしているのか、浅慮だから表面だけを掠め取って本質に近づいた気になっているだけなのかが本当にわからない。


分からないことだらけで、ほんとうにおもしろいねー




 



 






 


 

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