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弁護士に求められて書いた成育歴

1982年1月7日12時46分
■■産婦人科医院(廃院済)にて生誕
父は変わらず、当時の配偶者=実母は■■、という名前とのこと。
当時■■町に住んでいたと聞く

生まれた後、父が消防士であり公務員であるため仕事時間が不規則であり空き時間が多かったため、産みの母は自分の親(母方の祖母らしい)に子どもを預け遊び歩いていたと聞いている(祖父母・実母から証言あり)
1歳半当時、実母・■■の不倫により離婚。一旦実母方に引き取られるも育てられないとまだ雪のある頃、明け方4-6時の間に祖父母宅へ預けにきたと祖母の証言あり。
実際離婚成立時、実母はすでに妊娠済・別の男性と暮らしていたとの実父より証言あり。
その後父親違いの弟が次の年の1月7日に生まれていると24歳の時再会した実母本人から証言あり。

2歳前後、育ての母・■■と実父が入籍。恐らくその頃実母とその親戚関連の写真を処分される。
母子手帳の改竄も行われ子どもは育ての母を産みの母と信じて育つ。
■■町より■■町の職員住宅団地に移り住まう。
同じ団地の当時小4~小5だった有子という子どもを中心としたいじめを受けながら育つ。しかしながら、仕事柄と飲み会ばかりの父よりも育ての義母に懐く。また、父方と義母方の祖父母・親戚には可愛がられた記憶あり。
後、義母の姉より義母側祖父母・親戚は出生が不憫だったからではなく、純粋な気持ちで見守り可愛がっていたと今年証言あり。
義母が仕事を始めた頃より父方祖父母宅に週の半分程度幼稚園後預けられる。祖父母友人達にもよくしてもらった。が、父には基本的に無視されてきた覚えしかない。
■■小学校に入学した小1の頃より、目の前で喧嘩をする頻度が増える。幼稚園年長頃より喧嘩はあり、客用のガラス製大型灰皿やティッシュの箱を父が投げつけたり義母を殴るところを目撃している。また、夜ふたりで出かける頻度は高かった。

小2になる頃、■■町より■■町の父方祖母の妹叔母宅の上階へ引っ越して■■小学校へ転校する。義母が仕事を増やすか否かで喧嘩していることが増えるのを目撃し、幼稚園から始まっていたパチンコ中毒が悪化していくのを実感していた。
小3の頃、■■というクラスメイトを中心としたグループにいじめを受け始める。
秋、義母より余っているレターセットを譲ってくれないかと尋ねられ応じた次の日、学校から帰宅するとそのレターセットに義母が書いた手紙が置いてあるのを目撃する。封がされていなかったことと子どもの好奇心により読んでしまう。
「あの時女がいたのは間違いないんでしょう?」と最初の数行に記されていたため、実父が不倫をしていることを認識する。酷い喧嘩もパチンコ中毒・キッチンドランカー発症もそのせいだと理解してしまった。
冬、父方祖父母宅へ義母が「今までお世話になりました」と土下座をする場に同席する。その数日後、なにも告げられないまま学校から帰宅すると義母のものが自宅からすべてなくなっており、離婚成立した旨を理解する。が、実父からはなにも告げられず。
母親(産みの母と信じていた義母)がいなくなったことによるショックで寝つきが悪くなり、入眠障害めいたものになる。続いていたいじめによる過食症も酷くなる。ある日、義母が撮影し続けていたビデオテープを探し出して誰もいない自宅にて見ていたところ、実父が帰宅し「がっかりした」と言う。
その後、高校生になる頃までそのビデオテープは隠されていた。アルバムより義母と親戚関係の写真もすべて捨てられていることも確認済。加速されるいじめにより4日間のみ登校拒否する。モノを与えるから学校へ行け、と言われ従う(ドラゴンクエスト4のゲームソフトだった)

離婚した事実が広まるにつれて、同クラス男子生徒からのからかいも発生し苦痛を感じながら育つ。実父と不器用ながら交流をお互い深めようとするが、彼の考える子どもは幼稚園児のままだったようでわかりあえず祖父母と妹叔母・叔父に懐き育つ。
学校での成績を維持していないと無視される頻度が更に増え、実父とふたりきりの時食事を抜かれたり客用のガラス製灰皿・ティッシュ箱・座布団などが投げつけられることが増える。入眠障害がひどくなり、祖父が■■病院(廃院済)より小児向けの不眠改善漢方薬を飲ませてくれるようになる。
小4頃より実父が多数の女性と交際している事実を認識する。その中でも本命は■■さんという方で、食事を共にすることもあった。他の女性複数より、「お父さんから声かけられたんだけどどうしたらいいと思う?」と聞かれることがあり戸惑う。そして家族というものがわからなくなり陰鬱な気分を感じ始める。
義母のことがショックでパチンコ屋の前をまともに歩けなくなり、紙タバコの臭いがパチンコを連想させるため咳が止まらない症状が出るようになる。いじめに関しては小4で■■が転校し、クラス替えがあってもひと学年ふたクラスしかなかったため程度はあれど続いている。ただ、単なるからかいといじめの区別じゃつくようになっていた。
祖父母宅での漢方薬服用は続いていたが、寝つきの悪さはどんどん酷くなり祖母もしくは妹叔母と一緒にふとんに入り寝物語をしてもらわないと眠れなくなる。睡眠時間が4時間程度のこともあった。学校での成績は小5の担任が変わり者だった時を除いて体育以外好成績を維持し続けていた。

■■小学校より■■中学校へ進学。女子から■■・■■中心とした無視を中心としたいじめを受け続ける。男子から■■を中心としたボールをぶつけられるなどと嫌がらせを中心としたいじめも受けていた。中学時受け持ちの担任へ自主的に訴えるようになり、その時だけ改善するも後々再発を繰り返す。
担任が言ったから話してやるんだという女子もいた。そのことも含め居場所がないと感じる。自宅での父の成績の話以外基本無視は続き、心を開ける相手が祖母だけのため常に空虚感を感じ続ける。
中2の二月、更に女子からのいじめが激化。そのため、中3の間僅かながら行事に参加はするも登校拒否を続ける。不眠・過食も更に酷くなる。いじめに対して担任・教頭は真摯に取り組んでくれるも改善せず、各親子と学校側を含めての話し合いが持たれるが一時は転校の話も出る。受験が近いため頓挫するも、祖父が教育委員会までもっていったと言われる。
表立って父は動くも、愛情からではなく世間体からだと感じていた。また、幼少期から〇〇をすれば〇〇がもらえる、〇〇円がもらえる=愛情ではなく金しか出さないと認識し、愛されていないと自分をみじめだと思う。他の親子を見ても、自分のようでなく育ててくれているのは義母だったことと祖父母だと思う。大学へ行けと言われ続けていたので、当たり前のことだと思っていた。
中3夏、男性とお付き合いを始めるが今でいうペドフィリアだったため酷い目に合う(現在相手は某大学教授になっている) そしてそれを愛情だと間違って認識してしまう。
父という存在と話をしてもまともに話題が続かず、語彙力が違うのではないかと思い始める。
高校進学時も登校拒否により成績が足らず、またいじめに参加した相手がいる学校を受験したくなくて■■へ越境受験をすることにする。その時はビジネスホテルを別室で確保したことに違和感を感じた。親子なのだから同室でもいいのに、そんなに嫌いなのかと感じた。

札幌の高校に進学するもいじめの影響が残り1年生の夏休みまでかなり休んでしまう。■■から■■への往復通学だったため朝夜駅の送り迎えや昼食のお弁当作成については、父がすべて行っていたと言っているが実際は祖母が作ったり祖父が送り迎えも7割程度行っていたと認識する。
学校生活中も悩みはあるも父に言っても無駄、話をしても理解してもらえない状態だったため祖母や妹叔母と話したりすることが多かった。こんな時母(義母)がいればと思い、会いたいと願うも言い出すことはかなわず離婚後タブーとなっていると感じる。小学校の時隠されたビデオテープを見つけ、ほんの僅か残っている義母の写真を確保する。
父の釣り書きを本棚の間から発見したことと、早苗さんと別れたことにショックを受ける。父の性的な面をちらほら生活の中で見かけることが多くなり、肉体的接触と金銭面=愛情なんだと認知が歪む。
大学進学時志望校を告げるも偏差値自体は満たしているも受験自体させてもらえず、系列の女子高のみと告げられ東京の■■大学(現■■大学)へ進学する。

大学進学後、環境変化と季節の影響で体調を崩すも2年生まではなんとかなる。ひとり暮らしに解放感を感じ、見張られていない・無視されないことに嬉しさを感じる。習い事をたくさんさせられてきたが、なにひとつ役に立たないと強く思う。
交際相手の不実により別れた後、不眠症が強くなり18歳以上用の漢方薬をドラッグストアで買い求め飲み始める。しかしながら、一度だけ急性胃腸炎にてノロウイルスのような症状発症時父が駆けつけてくれたことは嬉しかった。が、交流は薄く電話などで普段の様子を話すのは祖母ばかりになる。帰省時も泊まるのは祖父母宅だけになり、実家である二階・自室に入ることがなくなる。
20歳の時、父は現嫁と籍を入れる。が、決定してから教えられ会わせるつもりもないと言われ反発。無理を押して会わせてもらう。あまりいい印象を受けず「一生やもめでいろというのか!」と怒鳴られたりもしたが、なにより祖父母が喜んでいたので受け入れる。最初のうちは現嫁とも仲良くしようと努力するが、食事など地味な面であまりいい印象は受けていなかった。同時期から祖母も同じように感じていたと証言あり。
21歳の時、出光の工場の火災時さすがに心配になり父へ電話する。その時の些細な会話の中でぽろっと「あのひとお前の母親じゃないぞ」と父が言い出し大変なショックを受ける。それまで実母と思っていたひとが違ったという事実に自分のアイデンティティが崩壊した。その後父と話すのが怖くなる。程なくして当時の最寄り駅から電車に乗れなくなり、パニック障害と重度不眠症と精神科にて診断を受ける(■■・■■病院にて)
自分がどうして生きているのかもわからなくなり、リストカットやアームカットなどの過度な自傷行為をするようになる。最初の恋人からの間違った認識が影響してか、性的にひどい目に合う(具体的に言葉にすることはできるが、文章として記載は難しいような内容)
ストーカーに合ったことなども含め、大学が休みがちになる。「休学させるカネはないからな」という言葉を皮切りに真綿で首を絞めるように退学しか選択肢がないよう誘導され、大学を中退する。当時付き合っていた恋人が■■にいたため引っ越すもうまくいかず、一旦■■に戻った上で■■へ帰る。実家に住まわせないと宣告を受けたため、■■市■■区■■にて始める。

精神的な症状は酷くなり、ドクターショッピングを繰り返す。自傷癖に薬物大量摂取、オーバードーズが加わり何度も自殺未遂をする。祖母は認識し声がけしてくれていた。一度本当に危なくなった時のみ、父と現嫁も訪れたことがありその時現嫁が「私のせいなの!?」と問われた。その通りだと答えたかったがその事実は告げず(薬の効果で朦朧としていたため、まともに話せなかった)
22歳の時元夫と知り合い交際する。妊娠したため籍を入れるも当初私生児にしろと父や姑より言われたり、同居が条件となったため悪阻に苦しむ。が、それまで飲んでいた精神科の薬も含めすべて絶った上で出産に臨む。帝王切開にて出産後、2か月で仕事復帰。その後も金銭と暴力を含むDVや嫁いじめにあうが、自責思考極まりなく誰にも助けを求めることはできなかった。出産後もワンオペ育児かつ家計管理もさせてもらえずDVが続く。娘だけは守っていたが、害が及びそうになったため祖母を呼ぶ。
祖母が来た日、目の前で首を元夫に絞められて殺されそうになったことを機に別居・離婚調停となる。その時経験者だからと父に助けを求めるも「そんなもの知らない」と言われすべてひとりでやらなければと思い、祖母に付き添いのみしてもらって半年間かけて離婚する。娘の親権を希望していたが相手方も求めており、且つ「(子どもは)お前の人生の邪魔になる」と言われ実家に逃げた一週間を経て連れていかれてしまう。この時の言葉から自分はやはり邪魔だったのだと認識。
23歳時で離婚成立し精神的な症状が加速していたこともあり一旦■■を受ける。■■級認定。ドクターショッピング後、妊娠を機に■■病院に転院していた。当時の診断は鬱病となっていた。
24歳時物心ついてから一度も会ったことのない実母に会いたいと思い、■■市■■区役所を通じて探してもらう。実際会った時、父親の違う弟・妹のようにスポーツができず文武両道ではないことをけなされる。最終的に「生まなければよかった」「堕ろせばよかった」と言われる。後日談として、当時実母より父へ子どもが会いにきたことについて抗議の電話があったと証言あり。
娘とは相手方圧倒的有利な条件での面会しかできず。自殺未遂を繰り返すも死ねず。
社会人として働いては数年で心体共にぼろぼろになって療養を、となりその度鬱病が悪化していたのだと■■での医師に後々言われる。
20代~30代頭まで付き合っていた相手と同棲に至るもDVを受けて別れ、その後30代付き合っていた相手とは事実婚となる。祖父母にも紹介していたが父の連絡先すら知らず交流なし。結婚することと交際することをごっちゃにして罵倒されるため話さなかった。
30代の頃交通事故に合う。祖父母が駆けつけてくれたが、父は来ず。その時祖父母を通じて金銭を受け取ったためお礼の電話をするも怒鳴られてショックを受け、断絶が決定的だと認識する。後々、その交通事故の傷が元となって皮膚がんを患い摘出手術・化学療法を受け寛解。大病になったことは祖母晩年まで告げず。
6年前、祖父死去。その一か月前に事実婚相手と共に会っていたことや肺がんだったことすらも知らず連絡を受け■■の祖父母宅へ泊まる。入院三日間祖母と共に病室への泊まり込みを経て看取る。初めて心から悲しいと認識する。それまで涙を流しても反射的であり、感情が薄かったことに気づく。そのほぼ一か月後■■地震発生により、グリーフケアなしの状態が今も続いている。通夜・告別式と初七日・四十九日・百箇日法要と同時の納骨については参加。毎月の月命日法要について父が来るなと言っていると祖母に頼まれ主席せず。

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