その”呪い”は解くべきか、解かざるべきかー『呪術廻戦 0』にみる純愛のカタチ
みなさん、純愛してますか?
恋愛ではなく、純愛です。時間と共にすり減ることもなく、その人のためなら命も投げ出せる、自分のことより相手を想って行動してしまう、純度100%の愛。
純愛なんて今どき宝塚歌劇団か恋愛小説、アニメの世界しかないでしょー
そんなも聞こえてきそうですが、今日はこの”純愛”と”呪い”について考察してみたいと思います。
(映画観ていない方、ネタバレしてそうなのでスキップお願いしますm(_ _)m)
「愛」と「呪い」は紙一重
これは、アニメ映画『呪術廻戦ーゼロ』の中で、五条先生と主人公である高校生・乙骨憂太との会話の中で出てきた言葉です。
この物語の主人公、乙骨憂太の心の中には、幼少期に死に別れた小さな婚約者”里香ちゃん”が常に存在しています。
比喩ではなく、実際に”里香ちゃん”は恐ろしい呪霊の姿となっても憂太の側を離れず、幾たびも彼の危機を助けてきました。
里香ちゃんの”呪い”が自分にかかっているのかと思っていたけれど、”呪い”で里香ちゃんを自分のそばに縛っていたのは自分のほうだったのかもしれない……
そんな憂太の思いを受けての五条先生のこのセリフです。
愛≒呪い
この方程式でいくと、愛と呪いは紙一重のところに存在するもの、となります。
では、「呪」とは何か。
めちゃめちゃ悪いイメージですね。特に1。
まさに『丑三つ時に藁人形に五寸釘を刺して…』が思い浮かんでしまう、湿度の高い恐ろしいイメージです。
でも、2にもあるように、古来日本では、こうした悪意による「呪い」以外にも、儀式やおまじないといった意味合いのことにも「呪」という言葉が使われていたのだそう。
「呪」と書いて「まじない」と読むのもこちらの意味がもとになっているのかと思います。
語源的なことでいえば、「呪」も「祝」も、”祭主”を意味する「兄」という字に「口」か「礻(しめす偏)」をつけたものです。
「礻」はそのまま神様を祭る時の祭壇をあらわしている字なので、祭祀そのもの。「口」は祝詞などをあらわしているのではないかと考えられます。
「呪う」のも「祝う」のもおおもとの意味はかなり近しいものであり、
呪く・祝くと書けば、どちらも読みは、「”ほさ”く」となります。
愛の変容が”呪い”に変わる時
一方、「愛」という言葉。
様々な意味合いやニュアンスを持つゆえに、その解釈は無限大です。
ここでは、人類愛的なものや宗教的な愛はさておき、恋愛に関しての「愛」で考えてみます。
①〜②への流れは自然であり、自分が主体となった「愛」です。
誰も傷つけず、誰にも負担がない。
それが、③〜④になると、「あなたのために」「あなたを思って」した行動に、なんらかの見返りが欲しくなってくる。
しかもいつしかその欲は、同等かそれ以上のものを求めるようになってくる。
⑤に至っては、言い方を変えれば『永遠に自分のそばに縛り付けておきたい』という「呪い」にも似た感情が生まれてしまっている。
愛は、そのままであれば、祈りにも似たあたたかな「祝」を感じさせるもの。
でも、そのカタチを変容させたときには、相手をがんじがらめに縛り付ける「呪」にもなり得るということ。
純度の高い”呪い”は祈りにも似た究極の「愛」
乙骨君が気づいたのは、『里香ちゃんを愛しているから、ずっと自分のそばにいてほしい』という、自分自身の気持ち。
それは、”呪い”にも似た祈りのような愛だったのではないでしょうか。
里香ちゃん自身にもまた、身体は死してなお、その気持ちに応えようとし続ける「愛」があった。
人の欲や念、悪意による呪いが行き交う禍々しい『呪術廻戦』の世界観。
その中に描かれる無垢な愛は、まさに「純愛」を感じさせるものでした。
さてここで、あなたの愛は、「愛」でしょうか、「呪」でしょうか。
相手が欲しい、そばにいて欲しい、見返りが欲しい。
そんな”呪い”のように相手を縛る「愛」なのか。
それとも何の代償も求めず、相手の幸せを”祈る”「愛」なのか。
相手の幸せをただ祈り、解放してあげる、解いてあげる
そのことで、自分自身が”呪い”から解き放たれることもあるのかと思います。
あなたの愛が、幸せなものでありますように……。
心から応援しています♡
【今回ご紹介した映画】