パラレルワールド

第一章 帰宅


入院生活二ヶ月分の荷物を持っての移動は、退院直後の身体にはかなり堪える。電車で帰ろうかと思ったけど、タクシーにして正解だった。
電車だったら乗り換えばかりで、まだこんなところまでたどり着いていないはずだ。
多少お金が掛かっても疲れないようにとか、身体が辛くないような選択がちゃんとできるようになった。こんな私でもこのニヶ月で少しは成長した。私はいつもどこか自虐的だったから。
そんなことを考えながら窓の外を眺めていた。
二ヶ月の間に季節は夏から秋へと変わり始めていた。たった二ヶ月なのに、懐かしい景色が近づいてきて胸が高鳴った。

二ヶ月ぶりの我が家。
我が家と言っても誰か待っているわけでもない。
やっぱり家に帰れることはとても嬉しかった。退院が決まった時は達成感にも似た開放感を感じた。やはり入院生活は窮屈なものである。
下界とでも言うか、シャバとでも言えばいいのか。
入院して退院するとは、ただ帰宅する感じとは違って、下界やシャバに解き放たれる感じがした。
病院の外に出た時の自分だけ妙に浮いているような、外の景色に溶け込めていないような違和感。
空調が管理された病室から、まだ暑さの残る9月の空の下に解き放たれると自分の中のゲージが徐々に上がっていくのを感じた。

タクシーをマンションの前で停めてもらい、私は自分の部屋へ向かった。二ヶ月ぶりとは思えないほど酷く懐かしい気持ちになった。早く早くと思っているのに、なぜかゆっくり歩くあまのじゃくな私がいる。

久しぶりに見るドアの前に立って、鍵を取り出し鍵穴に挿す。わくわくしてうきうきしていた。が、「あれ?」思わず声を出してしまった。
鍵が開いている。と言うか閉め忘れた?そんなはずはない。私は凍りついた。出る時何度もドアノブを回して確認したはずだ。なら泥棒?私は瞬間的に荒らされた部屋を想像し、警察官や鑑識の人(泥棒に入られて鑑識がくるのか分からないけど)が部屋にいる景色を妄想した。パニック状態である。
中に泥棒がいることも十分考えられるのに、私は反射的にドアノブを回しドアを開けていた。

中に入ると電気がついていて、換気扇が回る音も聞こえる。料理を煮込んでいるような匂いもする。人の気配を感じた。ん?お母さん?まさか、あの人が来るはずがない。私が危篤状態になったらどうする?と聞いた時、その時の自分の体調によると答えるような人だ。じゃあ何?誰?これはどんな状況?何が起きてる?
音を立てないようなにキッチンへ向かうと、そこには女の人が立っていた。

人間、本当に驚くと本当にフリーズするんだと思った。思考停止。きっと防御反応なのだろうが、それにしても目の前の現実が理解を越えすぎて頭が全く考えようとしていない。
だって、私がいるんだもの。
私ー。
いや私じゃない。色々違う。でもよく見ると顔が私。えっ?私?ドッペルゲンガー?世にも奇妙な物語?私もう死んでるの?それともこれから死ぬの?
そこまで考えて、またフリーズした。

第二章 別の私

「おかえりなさい。退院おめでとう。」
振り向いて一瞬驚いた様にも見えたが、その人は普通にそう言ってみせた。
「誰なの?何?どう言うこと?私…これ何?夢?
 私生きてるの?やっぱりあの時死んだの?」
大声で言っているのに、お腹に力が入らない。声がヘナヘナと折れて響いていた。
「とにかく私は怪しい者じゃない。って言っても怪しいか…とにかく大丈夫。大丈夫だから。」とその人に宥められ、私は魂を抜かれたような状態になりながら椅子に座った。
「まず。まず、理解だろうけど説明するわね。」その人はガスの火を止めて私の向かい側に座った。
小さなテーブルを挟んで向かい合うと、その顔は本当に私によく似ていた。でも髪型や服装、話し方や雰囲気、醸し出すオーラ、肌質はなんとなく違う。違うんだけど、何と言えばいいのか感覚的に私であることを感じた。
「夢を見たのよ。たぶんあなたの夢。顔は私なんだけど、私のことじゃない夢だったの。入院してて、とても辛そうだった。体が痛かったり、幻覚や幻聴とかね。リアルな夢だった。それで、光に吸い込まれるような強烈な光を見たの。夢の中で。それで目が覚めたらこの部屋にいたのよ。」
エプロンを脱ぎながらその人は話を続けた。
「私もはじめは何が起きたのか分からなかった。
夢なのかとか、私気付かないうちに死んでたのかなとかね。夢の中の幻覚なのか、現実で幻覚を見てるのかなとか。あらゆることを考えたわ。家に帰ろうともしたけど、どう言うわけか思い出せないのよ。家の記憶がないの。住所も出てこない。でも自分が今まで何をしてたかは鮮明に覚えてるのよ。最近離婚して、仕事も辞めてプー太郎だったこととか。大学生の娘のこと。別れた主人のこと。よく覚えてるの。でも携帯もないし、自分のものが何もなくて。あるのは今着てるこの洋服だけ。」 そう言ってその人は困ったように笑ってみせた。
「その後、あなたの夢を続けて見るようになって
なんとなくここはあなたの部屋なんだって思った。でも私がここにいる訳が分からなくて戻る場所も方法も分からないから、あなたが帰ってくるのをとりあえず待とうと思ったの。夢の中で今日退院することが分かってたから。それと、ごめん。この数日の間、色々使わせてもらった。洋服やあとお金も。でもレシートちゃんと取ってあるわよ。買ったのは食料品。勝手にごめんなさい。」
説明を聞いてなんとなく状況が分かってきた。この人も困っている。でもこの状況はあり得ない。何故こんなことになったのか。どうしてこんなことが起きているのか。
「あのー。こんなこと居候の私が言うのもなんだけど、ひとまずお風呂にでも入ったら?」
そう言われて、素直にそうだなと思った。入院中はシャワーだけで浴槽に入れなかったし、何より一人になって頭を整理したかった。まず、状況を理解して、どうすればいいか考えなければ。こんな状況なのに彼女を警戒したり、まして不審者で通報しようとは思わなかった。不思議と彼女を全くの他人と思えなかっし、どこかでもう一人の自分なんだって受け入れている自分がいた。
私は言葉も出てこないまま、とぼとぼとお風呂場に向かった。自律神経がおかしくなってしまったのか、あんな汗をかいていたのに寒いくらい皮膚の表面が冷たくなっていた。浴槽にはお湯がはられていて、鏡が湿気で曇っていた。私は鏡を擦って自分の顔をよく見てみた。「大丈夫。私はちゃんとここにいる。」

第三章 私と私

お風呂から出ると、彼女はお昼ご飯にクリームシチューを用意してくれていた。退院の日は昼食をキャンセルしたからまだお昼を食べていなかった。思えば会計で随分と待たされ、退院後の薬について薬剤師から説明を受け、タクシーを捕まえてやっと帰ってきのだ。出前でお蕎麦でも頼もうと思っていたんだった。時計を見るともう15時を回っていた。
「まだ暑い時期なのにシチューでよかったかな…」彼女は私の顔色を伺う様に言った。
「ありがとう。大好物だから嬉しい。」私はとってもお腹が減っていた。誰かにご飯を作ってもらえる。こんなに嬉しいことはなかった。
二人で向き合ってシチューを食べながら、色々なことを話した。こんなことがあるのか分からないけど、彼女はもう一人の私なのか。直感でなんとなくそう感じて受け入れてしまっているのだけど、その自分の考えが正しいかちゃんと確かめたくて本当にもう一人の私なのかと色々質問をしてみた。名前、生年月日、生まれた場所、両親や姉の名前。通っていた幼稚園、小中学校の名前、高校…。
彼女は順番に正解を答えた。でもなぜか高校からが違っていた。高校は私が落ちた私立高校に通い、大学もその附属の大学に進学していた。私は公立高校から短大に進学した。
「違うんだね…途中から。」
私はパラレルワールドの話を思い出していた。正確な原理はよく理解してないけど、なんとなくこれはパラレルワールドが関係している気がしてならなくなった。
「あのさ、パラレルワールドって知ってる?」
「あなたが退院してくるまでの間私も同じこと考えてたの。でもパラレルワールドならどうして私達同じ空間にいるの?途中から違うって、一体どこから?どこまでがあなたと同じなの?」
「高校から違う。私は北高から学短に行った。就職活動しなかったから、バイトしたりしてその後就職して、二十五歳の時に今の病気になって、治療薬のせいで妊娠ができないって言われた。色んなことに前向きになれなくて、恋愛も仕事も。ただ生きてるだけだった。毎日どこかしら具合が悪くて、このまま生き続ける意味が見出せなくて。それで気づけば四十過ぎてた。こんなに人生が意味もなく続くなんて思ってなかった。もっと早くに死ねると思ってた。入院前にずっと勤めてた仕事も辞めちゃった。私はそんな感じ。」と私は一通り自分の半生を話した。なんてつまらない何もない人生なのだろう。とっても辛くて長くて孤独だったのに、話してしまえばこんなに薄い。
「私は…」と彼女が続けて話し始めた。
「大学卒業後に銀行に就職して、二十五歳で結婚、出産。大して世の中のことが分からないまま結婚した感じ。離婚した主人は私と全く違った環境で生きてきた人で、だから結婚してから大変だった。歳も離れていたし、情はあるけど、多少の暴力もあった。彼の家庭環境のせいにすれば分かりやすいんだけど、結婚って本人同士だけのことじゃ済まないじゃない?初めは義母と主人が仲悪かったはずが、いつのまにか私が悪者になって。同居してた訳じゃないんだけどね。だんだんぎくしゃくしてきて。結局、主人は子供の時からの義母へのわだかまりを私で晴らして…DVやモラハラよね。結局そうすることで、自分と義母と関係を修復しようとした。DVもモラハラも私じゃなく、義母にそのまま返せばいいのにね。娘が大学に入って家を出たから、もういいかなって離婚したの。もう自由になりたかった。で、私も今は無職。」
顔が同じで、途中の人生まで同じなのに、こんなに違っていた。私は結婚も出産も離婚も経験していない。私はずっと働いてずっと一人で生きてきた。DVとモラハラ、離婚を除いて彼女の人生は私にとって理想だった。だって一度は結婚できているんだもの。結婚についてはよく考えていたけど、離婚については、他人事としてしか考えたことがなかった。浮気されても、DVやモラハラされてもなかなか別れない人がいるのが理解できなかったが、よく考えたら分かる気がする。経済的なことや子供のことも含めて、単純に善悪で計れない割り切りや葛藤がきっとあるのだろう。結婚ができるだけ幸せとしか思っていなかったけど、そういうことではないんだなと思った。
彼女は、「違うけど、二人とも今は無職。」と言って笑った。私もつられて二人で大声で笑った。

第四章 パラレルワールド

パラレルワールド(Parallel universe, Parallel world)とは、ある世界(時空)から分岐し、それに並行して存在する別の世界(時空)を指す。並行世界、並行宇宙、並行時空とも言われている。 

もし私と言う人が、今までの人生の中で選択したいくつものパターンでパラレルワールドが存在するとしたら一体幾つのパラレルワールドがあるのだろう。

彼女と私は高校の選択(実際は選択ではなく第一志望に落ちたからだが…)が違っていた。そこから全く違う人生になっていた。選択によっていくつものパターンの人生が存在するのだとしたら、彼女はその中のひとつなのか。だとしたらやはりもう一人の私ということになる。

彼女の人生の出来事は、私にないものばかりだった。私が持ってないものを持っている。ただ、
この数十年彼女は旦那さんとの関係で悩み辛い日々だったろう。子供に恵まれ、主婦として社会的には格好の付く人生を生きていた。子供が小さい頃は、きっとよく見かける御神輿のようなママチャリをガタガタ言わせながら走らせていたのだろう。
そんな人にも苦悩があることを私はあまり想像したことがなかった。結婚して子供がいるだけでこの人は私とは違ってとても恵まれた人なんだと思っていた。多少の苦悩があったとしても、私のこの不幸と孤独に比べれば…とそこから先は考えなかった。私とは違うんだ、恵まれた人なんだで終わっていた。
でもこんな風に同じ顔の人が同じ時間の中で全然違う人生を生き、でも現在辿り着いた場所は同じで、しかも無職と思うとなんだか笑ってしまう。
外から見たら恵まれ人でも、彼女は決して幸せではなく、孤独だったのだろう。もちろん幸せなこと、楽しかったこともたくさんあっただろう。自由がありたくさんの不自由があっただろう。我慢や無理も多かったはずだ。そんなことを想像して、私は彼女の過ごしてきた私とは違う人生の時間を少しだけ体感したような気持ちになった。

パラレルワールドって、並行して存在する別世界なんだったら、どうして私と彼女は今同じ空間に存在しているのか。

私は入院中に見たあの夢のことを思い出していた。
ステロイドパルス治療は高濃度のステロイド剤を3日間に分けて点滴する。不眠や多幸感、万能感、簡単に言うとHighな状態になってしまう。私の場合は幻覚や幻聴もあった。眠りが浅くよく夢を見た。
その夜の夢は強烈な光に吸い込まれる夢だった。ディズニーランドのスターツアーズの高速移動みたいな身体が吸い込まれる感覚がリアルにある夢で、とにかく見たことがないような物凄い光だった。身体も魂も連れて行かれるんだ、私向こう側に行くんだ、と思った。
光の中央になぜか仏様のような像が出てきて、このまま吸い込まれたらやばいと思った。死ぬ気がしたからだ。それで違うことを想像した方がいいと思い、私はなぜだかLINEスタンプのキャラクターの顔を思い浮かべた。すると仏様は消え
光の中心にちょっと悪そうに笑う白い顔のキャラクターが出てきた。すると光は消え、目が覚めた。その夜は怖くて目を瞑ることができなかった。
彼女も同じ様に光に吸い込まれるような夢を見て、目が覚めたらこの部屋にいたと言っていた。
これはどういうことなのか。
これがどういうことなのかは分からないけど、私達は感覚的にこれはパラレルワールドが関係していて、自分達はいくつもの選択肢から派生した同じ私なのだと言うことは深いところで感じ取り、分かっていた。
パラレルワールド内を移動して彼女が元の世界に戻る方法を探す。
その日から私と彼女の同居生活が始まった。

第五章 もうひとつの時間

彼女はとても性格のよい人だった。明るくサバサバとしていて頭の良さを感じた。
彼女の話はとても分かりやすくよく理解できたし、私が話すこともくどくど説明しなくてもすぐ分かってくれた。
感覚的に同じだからだろうか。それとも彼女が距離の取り方がうまいのか。同じ部屋にいても全く苦にならなかった。
私が退院したばかりで、病み上がりなのを心配して家事全般は彼女がやってくれた。
私達は髪型や雰囲気が微妙に違うが、顔は全く同じだったからきっと隣の部屋の住人レベルの顔見知りなら気づかないはずだ。
彼女は買い物や色々な支払いや手続きなど外に出る用事もよくやってくれた。「私、居候だから」が彼女の口癖だった。
私はそれにすっかり甘えていた。私のやることといったら、パラレルワールドについて調べること。入院中に起きた出来事を色々と思い出し、何かヒントになることはないか考えることぐらいだった。実際身体がまだ万全とは言えなかったし、
薬の副作用で夜眠ることができず、昼間に眠ってしまうことも多かった。
元々退院したら、一年くらいは仕事はせずにゆっくりしようと決めていた。趣味もなく、友達もいない私は貯金だけはあった。お金の心配はないのだけど、いつも将来の心配がつきまとった。
彼女と話していると、結婚していてもいなくても
人は本来一人で孤独なものなのかも知れないと思った。彼女は「人は一人で生まれて、一人で死んでいくものよね。」と言っていた。私はずっと誰も私の側にいないから頼るものがなくて、支えてもらえなくて寂しいのだと思っていた。
でも彼女の結婚生活の話を聞いていると、外から見たら順風満帆で人生のアイテムが全て揃っていても、頼るものはなく、支えもない。返って家族がいるのに頼れず、支えにならないことの方が孤独感が深くなるのだと思った。
彼女は言った。「私、結婚前はやっぱり人に依存してたところが大きいと思うのよ。自分に自信が持てないのは親のせいだとか、こんな親の血をひいてるから何やってもだめなんだとか。上手くいかないと外に原因を探して人のせいにして、自分のことは考えないのよね。自分を見ないようにするの。それを悩んでるとか、自分探ししてるみたいによく美化してたんだと思う。そんな自分に酔ってたのかな。子供なのよね。社会的な状況だけどんどん固まっていってしまって、妻になり母親になりって外壁はしっかりしていくのに内側がいつまでたっても空っぽだった。
内側を埋めようとしなくても、子育てや日々やることに追われて空っぽな感じは埋められるのよね。でも十年、二十年って時間が経っていくうちにぐらぐらしてくるのよ。怖いの。不安なのよ。
内側に軸がないからしっかりした外壁が余計にぐらぐら揺れてるの。内側の空っぽにどうやって軸を作るのか、自分探しや自己啓発、スピリチュアル、占い色々やってみた。でも次第に不安で眠れなくなって、ホルモンバランスかって婦人科に行ったり、最後には心療内科に行ったり。でも全部違ったの。私にとっては。全部自分の中に原因があったの。ただ自分ともっと仲良くすることだったのよ。」
彼女の話を聞いて、私の孤独感ってなんだろうと思った。私には彼女の言う【外壁】はなかった。外壁がなく内側が吹きさらしになっていた。内側が丸見えで恥ずかしくて、だから恵まれた人を敵視して自分を守るしかなかった。どうしようもなく抱えている怒りや敵意を原動力にして、その勢いで外へ出て行った。体調が悪い時や疲れて何もする気が起きない時、訳もなく気分が落ち込む時に、わざと自分を傷付けた言葉を思い出し、嫌いな人のことを思い出す。そうすることで自分を奮い立たせた。そうやって自分を保とうとしていたのかもしれない。彼女と私は違う場所で違う時間を生きてきた。私が知り得なかった幸福。私が知り得なかった優越感。羨ましいと思う。でもその反面、たくさんの憎しみや怒り、深い孤独感があったに違いない。妻として、嫁として、母親として、その役を演じ切らなければいけない。自分のままでは生きられない息苦しさがあったはずだ。
私は彼女を通して、彼女のこれまでの人生を擬似体験したような気持ちになっていった。

第六章 母親

彼女とは本当に色々なことを話した。
これまでの人生についてだけでなく、自分の人生観や死生観についても。
彼女はとても自分との距離の取り方が上手だった。人との距離の取り方も絶妙だった。会話の間の取り方や離れ方、関わりたい時と一人でいたい時を読み取るのが上手いのだ。私の話の聞き方もどこか遠くから見守っているような距離で聞いてくれた。変に自分事にせず、だからと言って他人事でなく。だからこの狭い部屋に一緒にいても不思議なくらい嫌にならなかった。
私は人との距離感が小さい頃からずっと分からなかった。近すぎるか、でなければ極端に遠かった。きっと自分との距離の取り方が分かっていないから、人との距離感が分からなかったのだと思う。人が信じられないからなるべく相手の心の弱いところを見つけて、可哀想な人なのだと作り上げる。時にはその人を憐れんだりする。そうすることで優越感を感じ、そうしてやっとできる余白部分で人を受け入れていたのだと思う。

母がそうだった。母は近所でも爪弾きにされているような人とばかり付き合っていた。父は「人に相手にされない人に分け隔てなく接するお母さんは立派だ。」と言っていたが、私は気付いていた。母は本当はそう言う人達としか付き合えない人だったのだ。
母が私に近所の付き合いのある人の話をする時、馬鹿にして「〜してやった」と言う言い方をよくしていた。話を聞いてやったとか、付き合ってやったとか。母はそうしたくてしていた訳ではなかったのだろう。そうすることが良いことだと思っているからそうする。つまり本心ではない。私から見て母は怖いくらいに偽善者だった。
反面、美人な人や、明らかに自分より良い生活をしているひと、働いている人など自分のコンプレックスを擽る様な人のことは、明らかに偏った目で批判的に見ていた。そう言うきらきらした人達と対等に付き合えない自分から目を背けて逃げ惑う悪質な偽善者だった。その事実を認めず、自分を愛情深い人間と信じて疑わない母が私はとても恐ろしかった。
きっと私は大嫌いな母のようにはなりたくないと思いながらも、一番身近にいる人として無意識に人付き合いのモデルにしていたのかも知れない。

彼女は母親をどう思っているのだろう。パラレルワールドの解釈が正しければ、彼女と私は同じ母親と言うことになる。両親や姉の名前は同じだったけど、人格ごと同じなのかまでは確認していなかった。
でも同じ人格の母親だとして、彼女はなぜ私と違ってこんなにも人との距離感が上手に取れるのか。自分次第で捉え方が違うとしたら、同じ人格の母親の元で育っても全く違う価値観の人間になると言うことなのか。私の母の捉え方が間違っていたのか。上手くいかない自分の人生を母のせいにしていただけなのか。

彼女は「お母さんはお花畑に住む夢見る夢子だからね。」と言った。「お母さんに私のいる世界を理解できるわけがないもの。結婚も病気になったことも全部人のせいにしているような人だし。お父さんとのお見合い結婚をおじいちゃんのせいにして、病気になったのをお父さんのせいにして、パートを続けられないのを病気のせいにして。お医者さんから無理やり誘導的に言葉を引き出してそれをドクターストップと言ってパートを辞めたり、辞めてからパートを続けたかったと言ったりね。本当はパートの人間関係に耐えられなかったのよね。あんなんじゃ勤まるわけないわよ。病気になって立派な大義名分ができた。で、ドクターストップです!ってね。お父さんの気も引きたかったのかもね。次第に手が離れてゆく娘達を夫婦の不仲の言い訳にはそろそろできない。では次は病気だ!ってね。そうやって自分を見ることをしないで、逃げて逃げて。一体どこへ行くのかしら?私はね、ああ言う人がどうやって死んでいくのか見てみたいと思ってるのよ。どうやって年老いて、言い訳にできることが周りからどんどんなくなっていった時どんな醜態をさらすのか。私はあなたよりもっと離れた場所からお母さんを見てるのかもね。だからこそ、普通に接していられるのかも。あなたはまだお母さんに期待してるんだと思う。もしかしたらいつかこの先、お母さんの愛を感じられる時がくるかも知れないって。きっとそんなことないって思うでしょうね。でもまずそう思ってる自分を認められたら変われると思う。お母さんは人を愛する能力がなかったんだって。つまりあなたは愛されてなかったってことをね。人は色んなこと言うから惑わされちゃうけど、ならお母さんの愛を信じてみてもいつも上手くいかないのはなぜ?って考えてみて。それは誰がなんと言おうと自分は愛されてなかった、自分の母親は人を愛する能力に欠ける人だったんだって事実を怖がらずに認めることじゃない?愛されなかったなんて当のお母さんは絶対認めないし、世間一般的にそんなことは親不孝、贅沢、世の中にはもっと不幸な人がいる、って批判されるでしょうね。でもそんなの心の中で思ってるだけなら誰にも分からないんだから、誰がなんと言おうと無視でいいのよ。何が真実かっていったら、自分の人生が楽かどうかだと思うの。楽じゃないならおかしいって気付かなきゃ。人生を拗らせている人って大抵家族関係に問題がある人よね。特に母親と。生きることに辛さがあるなら愛されてなかった事実をそのまま認めること、期待や幻想、悲劇のヒロインは辞めて事実そのものを認めるの。そうすれば、楽になれる。きっと罪を感じずに天国へ行けるわ。」
私は相槌も打たず、彼女の話を黙って聞いていた。凄い事実を言われているのだと思った。分からなかったことの全ての答えを教えてもらったのだと思った。彼女に会えてよかった。私の場所に来てくれてよかった。

第七章 彼女

彼女との同居が始まって一週間。お互いの生活リズムも波長もすっかり合ってきた。
でもパラレルワールドの謎は未だに解けず、彼女が元の場所に戻る方法も分からないままだった。

入院中に薬の量はだいぶ減っていたが、それでも夜眠れないことが多くて一日中ぼーっとしていることが多かった。
彼女が洗濯や掃除、食事の準備や片付けなど全てやってくれるので私は益々ダメ人間だった。
顔も育った環境も同じなのに、こんなにも違う彼女にコンプレックスを感じ始めていた。それがやっかみにならないよう必死に自分を制していた。
彼女と話しいると、彼女の口癖やよく使う言い回しがうつっていることがあった。もしかしたらなりたい自分のモデルが彼女なのかも知れないと思うようになった。私もこれから彼女のような生き方ができるのだろうか。そう思うと心に明るい光が差し込んでくる気がした。彼女のように花があり、知性があり、人当たりがよく、サバサバと軽やかに。そんな生き方がこれからしてみたい、と思うようになった。
同じ顔なのだ。同じ環境で育ったのだ。彼女を前にもう言い訳はできなかった。

彼女はどうしてここにいるのか?
何故ここに来たのか?

彼女が元の場所に戻れる方法を考えることより、自分のことを考えている自分を恥じた。
彼女の立場になったら、不安で孤独でたまらないと思う。でも彼女はそんな素振りをまるで見せなかった。自分が彼女だったら、取り乱しパニックになるだろう。
私が入院中にここにきたのだから、誰もいない部屋に突然訳も分からずに移動してきて、毎晩夢の中で私の映像を見て、帰る場所も帰り方も分からず途方に暮れていたはずだ。
何事もなかったように毎日穏やかに暮らす彼女の芯の強さに私は嫉妬していたのかも知れない。
彼女の抱える不安に寄り添うことができなかった。糸口を差し出せば、彼女は不安な気持ちを私に吐き出せたのかもしれない。でも私は自分の弱さからそれができないでいた。
パラレルワールドについても正直どうでもよくなっていた。分からないし、分かったところで彼女がどうすれば元に戻れるのか方法が具体的に分からなかった。このままで成立するわけがないと分かっているのに、考えようとすると考えることから逃げてしまう。ぼーっとしてきたりそのまま眠ってしまったり。
衣食住には困らないし、今は療養中の身だし、と自分を甘やかせる言い訳はいくらでもあった。
もう少しだけここに隠れていたい、そんな気持ちだった。彼女がいるから外にでなくていい、仕事もない。社会との繋がりのない今の私にとって、彼女は都合の良い隠れ蓑になっていた。
彼女には思いっきり甘えられた。甘えると言うのは頼ると言う意味でだ。彼女を軸に自分を支えている自分がいた。分からないことが浮かぶと彼女に答えを求めてた。
過去の出来事に囚われる時は彼女の捉え方を聞いて自分の解釈とすり替えるようにした。いつの間にか彼女の存在が私の支えになっていった。そして彼女とのやり取りの中で、私は色々なことに気付くことができた。例えば、これまで人のことばかり気にして、自分のことを全く見ていなかったこと。人のせいにして、原因や解決策を全て外側に探していたこと。自分を嫌って自分と仲良くしてこなかったこと。気付いてしまえば、とてもシンプルなことだった。でもシンプルだからこそ気が付いていない人が多い気がする。人のせいにして、自分を嫌っている人がいかに多いことか。

外側に目を向けるのではなく、自分を見ることができるようになってきてから、不思議と夜も眠れるようになってきた。寝付けないことがあっても
自分と会話するような感覚で不安をやり過ごすことができるようになった。これも彼女から教えてもらった方法だ。
「私もね。30代半ば頃から上手く眠れないことが多かったの。あなたとは違って私は薬のせいではないけど、眠れないのって本当に辛いわよね。横になっていられないほどの不安が急に襲ってきて電気をつけて起き上がったりね。その頃はとっても自分が嫌いだった。だから人も大嫌いで、今みたいな私じゃなかった。外に出ることは敵地に向かうことみたいだった。それである時凄く体調が悪くなって思ったの。私をいじめた人達は元気なのに、私はどんどん辛くなってるなって。そう思ったら、自分が可哀想になって。もっと自分に優しくしてあげたいって。もっと私の話を聞いてあげなきゃって。人に気を取られて、振り回されて自分のことは無視してたのよね。自分の声によく耳を傾けてみると私ってとってもけなげで可愛かった。すぐやれるようなことも、結構無視してたりするのよね。自分からのお願いごとを。だから私は自分ともっと仲良くなるために、自分からの小さいなお願いごとはすぐ叶えてあげるようにしたの。それでいつも自分にどうしたい?って聞くようにしたのね。何かあった時だけじゃなくて、いつもいつも、毎瞬毎瞬。そうすると自分からのお願いごとって本当に小さくてけなげで可愛かった。そうやって嫌いで無視してた自分とちゃんと向き合って仲良くできるようになったの。眠れなくてもちゃんと眠れない自分の声を聞いてあげるの。大丈夫だよ。眠れないなら寝なくてもいいんだよって。そうやってだんだん夜が怖くなくなって、眠れないことがあっても悩まなくなった。だって人間そういうことって当たり前によくあることだってそんな風にに思えるようになった。自分を頼りにできるってそう言うことよね。」

彼女を通して、私は自分の知らない自分を見られるようになった。もし結婚していたら。もし母親になっていたら。もし病気じゃなかったら。人生には自分で選択できることとできないことがある。選んでいないのに、突然降りかかることもある。そうしていくつものパターンの人生ができる。こうだったらどうなっていたんだろう、あっちを選んでいたら今ごろどんな風に生きていただろう。色々な後悔がある。でももしかしたら後悔は必要ないのかも知れない。だって違う時空で違うパターンの自分がその人生を生きているのだから。そう考えると、私は妙に心強さを感じた。一人じゃないと思えたからだ。ある時空では私の出来なかったことをしている私がいて、ある時空には私の代わりにハズレくじを引いてくれた私がいる。
「後悔って、本当は違う時空にいるもう一人の自分に会いたくても会えない片想いみたいな感情なのかもね。もどかしくてどうにもならなくて。でも私達どうして会えたのかしら?私の生きたかった人生とあなたが生きたかった人生がお互い同じだったからかな。きっとそうなのかもね。人生に起きることに正解も不正解もない。あるのは後悔っていうなりたかった自分への片想いね。だから私とあなただったのね。」

そして、翌朝の彼女はいなくなっていた。

第八章 私

同居してから10日目の朝、目が覚めると彼女はいなくなっていた。久しぶりにぐっすり眠れた朝だった。
なんの形跡もない。大したショックも受けていない。ぼーっとしたまま、そのままを受け入れている自分がいた。昨夜彼女と話たことも、ずっと昔のことのように感じた。なんだったんだろう。長い夢を見ていたのだろうか。夢にしてはとても長いストーリーで彼女との会話はとてもリアルだった。彼女が寝ていたソファーの上の布団も、私が貸したパジャマも履いていたスリッパも全て片付いていた。
全部夢だったんだと思う自分と、彼女はちゃんと元の場所に戻れたんだろうかと心配する自分がいた。でも不思議と寂しさはなかった。どちらにしてももう彼女はいないのだから。

私は彼女の話をひとつひとつ思い出していた。
私にないものをたくさん話して聞かせてくれた。
私の中にその全てがきちんと存在していた。私はもう一人じゃないと思えた。きっと私は自分の見たいものを見ていたんだ。彼女は元々別の場所で別の私の人生を生きている。私の理想の自分。
それが彼女だったのだろう。でも彼女にとって私は彼女が生きたかった自分だったのだろうか。一人で自由だった。ひたすらに自分のことだけを考えて生きてきた。自分のために働いて、自分のためにお金を使う。人を嫌い、自分を嫌っていた。そんな私の人生を生きてみたいと思っただろうか。きっと私はハズレくじを引いた方の人生だったのかも知れない。

パラレルワールドー

パラレルワールドはきっと存在する。
自分が生きる以上世界は広がる。いくつもの選択の中で迷ったり、後悔したり。でもそのひとつひとつが自分の世界を広げる。そうしてたくさんの自分と繋がることができる。
自分のこの人生だけが私のもので、だから迷いや後悔は本当は必要ないのではないか。だって他の時空ではたくさんの自分が自分の生きられない分の人生を生きている。そのことに気づけるかどうかなのではないか。自分は決して間違ってはいなかったのではないか。そして私は決して一人ではなかったのではないか。
たくさんの自分と繋がって世界を広げてゆく。そのことに気づけるかどうかなのだ。例えハズレくじの人生でもちゃんと意味がある。そして自分の捉え方で人生は大きく変えられる。ハズレは大当たりになる。

時空を超えて彼女としっかり手を繋いで私は外に出てみた。
世界は優しさに溢れていた。そのいくつもの優しさと手を繋いで私は歩き出した。もう怖くないし寂しくなかった。

#創作大賞2022

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