見出し画像

慰めとあの赤と

「自分の中に、まだ自分も知らない一面がある」

こんな言説はもう何度もネットや怪しげなサイトで何度も見た。だがその既知でない自分が姿を現したとき、どうしてこんなにも恐れ隠れ通そうとしてしまうのか。いや、すでに受け入れられてしまっている自分ではない「私」の像からはみ出てしまうことが怖いのか?いやそんなはずない。なぜなら私はどちらかというと「破天荒で天真爛漫でそれでいてなんか賢い憎めない奴」という評価を受けることが多い。この評価はつまり「私がニッチで変なことをしていてもある意味で言えばおかしくない。むしろ納得だ」ということだ。そしてこれは私にとって都合の良い評価——文章を書くことにおいて——である。だが、よくよく考えてみれば、そんなのなんの関係もないじゃないか。自分が創作活動をするときにそこにはその人たちは一人としておらず、ましてはいきなり横に立って「それは君らしくないから書き直せ」とか「君にはいい文章なんて書けっこない」とか、そんな言葉全て現実なんかではないのに。実際に言われたわけでもないのに。何人も人の創作活動に対して文句をつけられないのに。でもここまで書いてきて気づいたのは、本当はそういう風に声をかけていたのは紛れもない自分自身なのではないか。過去に植え付けられた価値観や劣等感を認識し、それは絶対的で永遠に変わらないというものでないことを知っておきながら、自分を底に縛り付けておいているのは自分なのではないか。もう誰もあなたを止めやしないのにどうしてこんなに自分がやりたいと情熱をもってするときに、正確でない輪郭もあやふやで誤学習の塊のような「社会」的なものをもって殺そうとするのか。私は、本当のところは自分自身が己を殺そうとしていることを認めたくないのか?実のところあの「作り上げた社会で生き延びるための自己像」は虚像であり、本当に欲しているもの——自分が心から楽しいと感じるものや作りたい知りたいと思う事柄——が違くことを見抜かれて落胆され、社会からある意味「現実的に」断絶されて今度こそ捨てられるのが怖いのだろうか。「保守的で、目新しいものは好きだがその輪に入るほどの勇気がないうえに空っぽで、繕うことだけは一人前」な自分。本当に——こんなこと言っちゃいけないが——好かないのだ。こんなの自分じゃないと言い切って視界にすら入れたくない、できればこれを見ずに「心の底から」良いと思えるような人生を送れる人間として生きてみたい、なんてことを平気で考えている。そんな事無理だと馬鹿でも分かるだろう。私は馬鹿にすらなれない。斜に構えて自分は社会を俯瞰してみることができる人間ですムーブをかましてやり過ごしているに過ぎない。人はそれを生きているとは言わない——心が生きていない人間のことをどうして生きているといえるのだろうか。

私は、生きてみたいのだ。心の底から共感してみたいのだ。打算で構成された受けの良いキャラクターではなく、ひとりの、ただ存在する人間として。「これが好きな自分」を演じることで社会に適合しようとするのではなく、「これをやってみたい」と考えたときにその道を模索することに没頭することができる人間に。本質的にすべての人間は違う人間であり、それぞれに得意不得意があり、長所短所があり、好き嫌いが違っており、すべてにおいてその程度が違っており、だからこそ私は、私である以前にユニークで誰にも置き換えようのない存在であることを理解し、それが何なのかに集中できる人間に。

いっそのこと、ここですべて吐き出してしまおうか。全力で私が不幸な人間であることの理由となった出来事や言葉たちを。私が真正面から向き合わなかったが故に無意識の中で私をむしばみ続けたそのすべてをここにすべて書き出してしまおう。

私は強くあらねばならなかった。私は家族というのは安心できる場所であることを知る前に、ぽっかりと空いた穴を塞いで皆が何にもないように働く必要があった。それによってやっと居場所が確約されるのだと学んだ。大人は自分よりもほかのことを知っていて頼りになる存在なんだと知る前に、大人は必ずしも正しいわけではなく、無駄に経験値があるが故に自分が見えていない事柄を認識するのが苦手で、私のようなその規則に当てはめることのできない人間を見たときに、私に問題があるとして、簡単に自己の妥当性の材料にしてしまうことに気づかねばならなかった。私は他人に悩みを共有することで心が軽くなることを知る前に、自分の心の弱い部分を晒上げることのリスクを鑑みて他人に委ねずに自分の中だけで消化すべきだと学ばなければならなかった。私は、私という自我が芽生える以前に一人の人間として尊重されるべき人間であることを学ぶ前に、“客観的”にみてかわいそうな人間であるとしてそのように振舞うほうが一般的な法則からそれないためそうすべきだとして、そう振舞わらなければならなかった。「人間は最初からどうなるか決まっているのだ。だから君は結局のところ生きることはできないのだ。」という言説を否定するために行動している時、そう考えているうちはその考えに囚われたままだということを、メタ的な視点は常にそのもう一つ高い次元のメタがあることを知らなければならなかった。そして、本当は、私にはそれを見つめ続けながら心を殺さずにいられる強さがないことを否定して、繕わなければならなかった。私は、社会構造に組み込まれている「自分」が嫌いな割には、その「自分」を私に書き換えるよりも、もう今すでに適合している「自分」を保っていたほうが労力がかからないという打算のもとに怠惰をむさぼっている私を、踏み潰してすました顔をしなければならなかった。

悲しい時に「悲しい時に人は泣くのだから泣くべきだ」と考えながら泣くのではなく、わけもなく涙腺から泪を流してみたい。「この場では私はこういう行動をとるべきだからそうしよう」と考えて自分の意図しないことをするのではなく、「私がそうしたいからしただけだ」と言ってみたい。取り留めもなく悲しいが、「別にそんなの特別でない」という言葉を否定的にとらえずに、慰めとして受け入れられるようになりたい。でも自分が感じた怒りや悲しみを否定せずにそうであるとただ受け入れてあげたい。

どういった問いを念頭に置きながら生きれば、私はこの囚われかを適切に捉えることができるのだろうか。

自分が好きだと思うことを真似するのは得意だが、本当にそうしてもよいのだろうか。
私は、自分が新たなステップを踏もうとするときに自分以外の人間から許可がないとしてはいけないと決めつけて自分自身を縛り付けているのだろう。でもそれは決して私がそうしたいからしている訳ではないことは分かるのだ。だからこそより一層しんどいのだ。私に言わせてみれば、分かっているのなら大抵の物事には過去の人間たちが積み上げてきた経験値や対処法などがあり、それらを「自分に合った形で」選んで対処すれば、それだけのことなのだ。それを知っていてもなお、どうして私はいつまでもここにいるのだろう。いつまでもここに居たいわけではない。だがここから抜け出そうとする心意気も持ち合わせていない。このまま身をうずめてしまいたい——心の奥底ではそうしたくないことを知っていてもなお。


いいなと思ったら応援しよう!