『SNS 少女たちの10日間』感想:正しくないからこそ映し出せるもの
以下は、表題の通り、『SNS 少女たちの10日間』の感想(観賞当時、filmarksに書いたものの転載)です。
かなりセンシティブな題材を扱うこの映画には、できるだけ多様な意見がこ必要だと感じているため、noteにも残しておこうと思います。途中からネタバレを含みます(一文ワンクッションを置いています)
この映画を観て催す不快感が、この映画の最大の価値であり、最大の罪だと思う。
観る前に出来るだけ多くのネタバレを踏んでおいた方が良いと思う。女優達が受ける性被害の追体験を観客はさせられる事になるし、途中で出てくる感動的なシーンも、その演出がむしろ絶望につながるかもしれない。当事者への2次被害になるかもしれないし、当事者じゃなくても、これが外傷体験となる可能性すらある。
そういうことが、一切配慮されてない映画だと思うし、映画が描き出した物の重要性を認めると同時に、そこに関しては正直否定的である。
以下詳細な感想(映るものについても触れます。)
・女優が「子役ではない」ということを理由に、それがあたかも被害ではないように扱われてるように感じてしまった。児童の性虐待は深刻な問題だし、それを炙り出すという本作の意義は理解した上で、「彼女達が大人だから大丈夫」という事はどこにも無い。彼女達が大人だから遭遇しないかもしれないだけで、大人であっても、急に性器や自慰を見せられたり、性的な画像(例え合成であっても)をばら撒かれたりするのは、全て性被害だと思う。この観点が微妙に欠落しているというか、軽視されてる感があって、最後まで違和感が拭えない部分であった。
・観る前からずっと警戒していたシーンは、やはり感動的でもあり、怖くもあった。大人と交流する子供が一番好きな言葉って「頭が良い」なんだよ。加害者は簡単に、心から、「自分を大事にして」とか言うよ。
そうやって、子供に判断能力があると思わせ、「自己責任」で性被害に持ち込むやり口を私は知ってるから、やっぱり身構えちゃうし、それを評価する人たちにギョッとしてしまう部分はある。彼は違うかもしれない、と思うし、違ったら良いな、と思うけど、「完全に証明された」という言葉ほど、このトピックに相応しくない物はない。
他にも色々とモヤついた事はあったけれど、この危なっかしい橋を渡ったからこそ浮き彫りに出来たもの、みたいなのはあったと思う。
この映画に大きな批判があるのが健康的な社会だと思うけど、同時に「公開されて怒られてほしい」という感覚の前提に「世間に知らしめてほしい」という気持ちがある。
この製作陣に怒りを持てる人にこの映画は必要ではないかも知れないけれど、この映画が無いと分からなかった、知らなかった、という人も全然居ると思う(し、それは全く罪では無いと思う。悲しいかな、体験しないと理解できない事は多い)。そのような人のためには、この映画は学びになるであろう、その意義は理解できる。
あの本来なら全く感動的でないシーンが、感動的に見えるというその体験が、この映画の真価だと思う。
そこから裏切られるかもしれない、という不安を抱く人間にとっては尚更、あのシーンが、この映画が描く被害体験の全てだと思った。
ちょっと前に観た「プロミシング・ヤング・ウーマン」と比較して、向こうは一歩先を行っていたな、と思うけれど、あれが寓話として消費されてしまうような社会なのだとすれば、この映画は必要だろう。
あとは本当に、私の不安や心配が全て杞憂だったら良いのに。そうしたらこの映画を手放しで褒められるのに。