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感傷的な話ではなく、単に思い出した小噺

新聞社時代に、配達要員で働いていた子がいたのですが、良くお喋りをする子で、それを思いつくまま書きました。

◆◆◆

よくエレベーターで入れ違いになるお隣のおんな。
「こんにちは!」

◆◆◆

 その日も僕は、いつものように新聞配達を終わらせると、インクと汗とタバコの匂いを混ぜこぜにして、12階の部屋へ帰ろうとしていた。 全く犬のようだと思いながら、決まったようにシャワーを浴びて、決まったように身支度を整えないと、決まったように焼肉屋のバイトに間に合わないから、やっぱり犬のように日課をせっせとこなしていた。 

それにしても最近の天気ったら、曇りのクセに蒸し暑くて、必ず一雨来るもんだから、ベットリ張り付くTシャツが更に臭って気落ちさせた。

仕事は面白かった。
焼肉屋の仕事はつい先週から100%チップが入るようになったということもあったが、場所柄、観光客で賑わうせいか、普段はネクラの事務員カオリちゃんやら、モギリのヤスヨちゃんなんかが、すっかり開放的になり、胸の谷間を見せつけてくれるからだ。 

焼肉の臭いとタバコの匂いと、大量の汗を混ぜ合わせた僕は、タイムカードをガッチャンとする頃には、また犬のようになって、店の外で待っているアユミちゃんをどうやっておだててやろうかと考えていた。そして、また少し吐き気を覚えて、裏道にツバを吐いた。 

ポケットの中のコンドームを確認すると、お待たせと言いながらユカリちゃんの肩に手を回した。 
ふっ、なにがお待たせだか・・・。 

カルビだかハラミだかをたらふく食べたおんなたちは、必ず言う。 
「あ~、食べ過ぎちゃった!」 
・・・・タバコに火をつけながら、僕はまたツバを吐いた。
そして、おんなたちのニンニク臭い笑い声を嗅ぎ分けていた。そうして犬のような僕は、夜の海岸へと歩いて行くわけだ。 

◆◆◆

エレベーターのすぐ横のデジタルは、夜中の3時になっていた。
もう、すっかり犬の気分になった僕は、早くねぐらに帰りたくて、このまつわりつく臭いを洗い落としたかった。安物の香水は、やたらと喉を刺激して、生唾が絶えなかった。 
でも、もう吐くのは止めた。 

12階のランプが壊れていたので、果たしてちゃんと停まってくれるのか、少し胸騒ぎを覚えながら、それでもドアが正しい階で停まった時は、負け犬のように、一散に僕は部屋のドアに向った。 
ポケットから鍵を取り出そうとした時、隣りのドアが開いて、あのおんなと目が合った。
僕は「こんちは!」と挨拶をした時、コンドームの空袋が落ちた。 

◆◆◆ 

長いこと話をした。 
「お茶でも飲みに来てね」と言われて、僕は真面目に誘われたと思い込み、シャワーできれいになった僕は、もう、どんな匂いもしなかった。 

「2年前に亡くなったの。」 
「長い闘病生活でね・・・。」
「とても寂しくてね・・・。」 

本当に寂しそうだったので、僕は2時間も話を聞いてあげた。 
犬のように、少しうな垂れたりして・・・。 

ふと見ると、未亡人の足があまりに綺麗だったので、僕は触りたくなった。
それは、初めてドキッとする瞬間だった。 
押さえ切れない気持ちを打ち明けると、 

「ダメよ。」 

優しく言われた。 

冷めたお茶を飲み干すと、少し吐き気がしたけど、それはいつものそれとは違っていた。

お隣のおんな。 
未亡人は美しく、白かった。 

またお茶をご馳走して下さいと告げると、焼肉屋のバイトに行かなくちゃいけないことを告げてドアを開けた。 
僕は本気で犬を飼うことを決めて、ポケットのコンドームを確認すると、新聞配達を辞めて洒落た仕事を探そうと決め、エレベーターを降りた。 

◆◆◆ 

焼肉屋のタイムカードをガッチャンする頃には、空が焼けていて、海辺から漂うサンオイルの匂いが、お隣のおんなを忘れさせた。 
本当は少しだけ、かの未亡人は夜中の3時まで何をしているのかって考えたけどね。

僕は吸いかけのタバコを揉み消すと同時にツバを吐いて、開店の準備に取り掛かった。 

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どこまで本当かどこまでが想像か判らないまま、
「自分は犬なんですよ~」と言いながら軽妙に話してくれるので、
私はただ彼の世界観を聞いていたっけ。