密度~「高校教師⑥」
リリ子は会場の席に身を沈めると、大きく深呼吸をした。
隣りの米倉は、「ハムレット」のプログラムを薄明りの中懸命に読んでいるようだ。
リリ子は、明日の江の島行きを断ったことが口惜しくてたまらなかった。今晩の観劇と交換したいほどだった。
明日は、ホットパンツとタンクトップで青春の1ページを飾る筈だった。母の嫌うジーパンもパンタロンも、一生着れないのではと思うと、母が選んだこのワンピースも古臭く思えた。
考えれば考えるほど、友人らとの距離が開く。そして、何故か米倉との距離が縮むことの不思議を思った。
全て母親の支配下にあるうちは、どうあがいてもリリ子の青春は遠のくばかりだった。
◆
米倉は、プログラムに目をやりながらも、一言も頭に入って来なかった。
待ち合わせ場所に現れたリリ子は、薄いピンク色のワンピースに包まれて、襟元のカメオが奥ゆかしくさを醸し出していた。
車に乗せるやいなや、「綺麗だ」と素直な言葉が口をついてしまった。
リリ子は、少しはにかんだようだったが、折り目正しく礼を言う姿に改めて大人の女性を意識してしまった。
これからの時間と、そして観劇後のことを考えると、米倉は、やはりけじめをつけるためにも、ある提案をしなければいけないと考えていた。
それはもはや、生徒を前に、どう切り出そうかと考えている教師ではなくなっていた。
◆
リリ子もプログラムを開いては、過ぎた数週間の記憶を辿っていた。
米倉との「夏休みの勉強」が少し逸脱し始めたのは、「日本書紀」の蛭子伝説だったか・・・。
イザナキとイザナミとの間に生まれた最初の神。しかし、子作りの際に、女神であるイザナミから先に男神のイザナキに声をかけた事が原因で、不具の子が生まれたため、葦船に入れられオノゴロ島から流されてしまう件がある。
女性であるイザナミのほうから誘ったため、それは誤った交わりで、まともな子供が生まれなかったという一説に、リリ子は「怖いっ」と発した。
「なんだ怖いか?」
からかうような目付きでリリ子を見る米倉。
「だってそうでしょ、何でも女性が悪者にされて!」
リリ子はクリスチャンであったが、エデンの園にある食べてはいけないと言われていた善悪の知識の木の実を、狡猾なヘビにそそのかされて食べてしまったイブを思い、そしてアダムにも分け与えたことから、女性が何かと愚か者扱いされるのが気に入らないでいた。
反抗するように口を尖らせるリリ子。
「うん、そうだな。だったら男がしっかりリーダーシップを取ればいい!」
そう言う米倉の論理には、少しも共感できなかったが、
いつか家を出たら、
社会に出たら、
自活したら、
私は自分の意思を持って生きて行こう!
と心に強く思ったのだった。
ぼんやり辿る二人の会話を思い出しながら、少なくとも今は、母親公認のもと、夏の夜の観劇を楽しむべきだろうと思い直した時、米倉がリリ子の白い腕に触れてきた。
ハッとなって見返すと米倉が言った。
「寒くはないか」と、冷房を気にしてくれた米倉の手は熱かった。
(つづく)
※事実を元にしたフィクションです。
人物や固有名詞は全て仮名です。
同じ名称があれば、それは偶然ですのでご了承ください。