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答え合わせの「もしも命が描けたら」

※本文中にネタバレがあります。一部敬称略。田中圭さんの呼称を文脈から田中圭さん、田中圭、圭くんと、ころころ変えるかもしれません


◆プロローグ

あの日からずっと私の中には月人が住んでいる。

月人のことを考え続けている。ゴッホの星月夜の中に私はいる。


2021年8月20日。晴れ。東京芸術劇場。マチネ。金曜日。日曜日には東京公演の千秋楽という日。『もしも命が描けたら』最後のシーン。

主人公の月人が最後の台詞を言って、ジャンプ。暗転ーーー

その暗闇の中で、わたしは身体の深いところから涙が込み上げてくるのを感じた。この感情はなに?映画やドラマや本で涙したことはある。でも今までのそれよりも熱くて、込み上げてくるものだった。止められないーー激しいわけじゃないけど、涙があとからあとから出てくる。こんこんと。こんこんと。

カーテンコール。はじめて味わう感情で半分腰の抜けたわたしはなかなか立ち上がれないでいたけれど。2回目に主演の田中圭が一人で挨拶してくれたとき。すっと立ち上がれた。彼の差し出した両手に導かれたように。そして渾身の拍手をした。顔をあげた田中圭、いや圭くんは観客席のほうを向いてちょっと驚いたような嬉しそうなおだやかな顔をして、はけながら、一人拍手をした。あとで2階席にいた方から聞いた話だと、ほとんどの人が立っていて、じんとくる光景だったという。

自分はろう者のため、音が入らない分、状況把握のため常に周囲をみるようにしている。だから前の人とか立っていることに気がつきそうなものなものだが、さっきまで月人だったその人ばかり見つめていて、その事実に全く気が付かなかった。自分でも驚いた。それだけ彼のことだけをみていたのだろう。そして舞台を楽しめた嬉しさから深いため息をついた。自分が全身全霊で感じ取ろうとしてたことに気がついた。心地よい疲労。唇にはうっすらと微笑。さっきの田中圭さんのように。 

◆答え合わせに至るまで

この日は、私にとっての「答え合わせ」の日となった。

わたしは「音」は耳に入っても判別できず台詞はほぼほぼ分からない。歌の歌詞もわからない。それでも田中圭さんにどうしても会いたくて、彼の主演舞台『もしも命が描けたら』8月14日マチネを観に行った。雨の日だった。事前情報としてわかるのはパンフレットのあらすじのみ。結果は…やはりというか、当たり前というか、笑えるくらいに内容が分からなかった。言いたくないけど、持て余していた瞬間があるくらい。もちろん命を削って役を纏っているのはわかる。台詞量が半端ないこともわかる。でもやっぱり内容がわからないとその凄さや楽しさがほぼ入ってこないのだ。どんなふうに見えるかは前編にあたるこちらを見てほしい(といって読ませようとする人)

私にはもう1回翌週に観に行く機会が与えられていた。どうしよう。これ。

実は別の方が交渉して聞こえない人向けのあらすじを主催者からは頂けることになっていた。内容を書き起こした方のnoteなどを見たり、個人的に教えてくださる人もいて、内容が少しずつ分かってきた。それでもやはりあの膨大な台詞がわからないと、台詞の積み重ねのこの舞台はやっぱり理解がむずかしいと感じた。

シンプルな舞台セット(大掛かりな場面転換はほぼない)に3人だけの芝居。小道具も最小限。衣装もシンプル。照明や投影の美しさはあるけれども、音楽もほぼわからないし、同じような2時間をまたみるのはしんどすぎる。例えば大道具や衣装がたくさんあり変化が多ければそれで「わあ」と誤魔化されてたかもしれない。でもわたしは田中圭さん、彼の発する言葉が知りたいのだ。何より純粋に楽しみたい。役を纏っている「田中圭」を感じたい。

どうしたもんかな。あらすじ貰って、それが詳しければいいけどな。でもそれでいいのか?と思っている時に、「台本を事前に見せてもらって観劇したたことがある」という同じ聞こえない立場の方からSNSにコメントをもらっていたのを思い出した。私自身も実は小規模な劇団にいる友だちが出る舞台とかでは台本を直接お願いして前もって借りたことがある。

でも今回は主演俳優所属事務所の主催で規模が大きい。聞こえないファンからの声は今まであまりないだろうな…。そんなことを思いながらも一大決心をして、台本を貸していただけいかと要望メールを送った。するとすぐメールがあり、何回かやりとりをした結果、あらすじではなく台本を貸して頂けることになった…!

やった…!

聞こえない、と言うことは私にとっては当たり前だけど、私に初めて会う人にとっては当たり前ではない。戸惑うことも多いだろう。それなのにSNSで私の呟きにいいねしたり、リツイートして応援してくれたり、個人的に舞台の内容を教えてくれたり、そしてこうして台本を貸し出すことを決断してくださる方がいる。ひたすら感謝しかない。

そんなわけで、この日、わたしは答え合わせのために劇場に向かった。先方のご好意で台本を2時間前に貸していただけたので、比較的じっくり読むことができた。台本は製本されていなくて、紙の束で、すごい枚数だった。これを覚えるのか・・・。田中圭さんは台詞覚えが早いので有名で、田中圭さんばりに覚えるぞ!と思ったけど(あるいは北島マヤばりに)、2時間の舞台の台本、初見で台詞全部覚えるのはやはり無理があった。それでも筋は入ったし、印象的な台詞はできるだけ叩き込んだ。読みながら、そういう話だったんだ!と霧が晴れていくような想いだった。あの仕草にはそういう意味があるんだ!と。早くもう一度舞台をみたい、と思った。わかった筋と舞台を関連づけたい。ギリギリまで読み込んで、席に滑り込んだ。

◆わたしはどうやって劇を見たか

運命の舞台が始まった。

巨大な三日月を見上げていると、少しずつ暗くなり、真っ暗になる。歌詞はわからないけどYOASOBIのテーマ曲を感じる。

そして明るくなると月人と三日月が現れ、言葉のシャワーが始まる。え、待って!は、早い…。早すぎる!

台本を前もって読めても、聞こえるわけではないし、台詞がぜんぶ頭に入ってるわけではないので、今は多分このシーンだな、という感じなのだ。何を喋ってるかはオペラグラス越しの口の形で読み取れた単語と、視覚的な所作からヒントを得る。でも月人の台詞はとにかく早い。横向いたらもう口の形もわからない。えー!今どこ?!と初っ端から迷子になった。

冒頭、(父親が)女と母親、(母親が)自分(月人)と男を「量りにかけて」という台詞が2回出てくる。「はかり」の所作は台詞を挟んで、対称的な所作だった。初回はわからないまま、天秤にみえた。実際は「はかり」だった。でもあながち間違ってない。(前回私はこういう描写してた。『両手を広げ、片方下げて、片方上げて、また別のほうをあげたり対象の動き。視覚的に美しいなと思う。』)なのでその所作がでると「父親は母と女を量りにかけて出て行った」的なことを今は喋ってるかな?とわかった。量りの所作を手がかりにして覚えてるから、あっ「はかり」でた!え?次の「はかり」まで結構台詞あるな?あったっけ?まだ?……とまあ、こんな感じ。口の形見ながらその間に圭くんの表情や所作、舞台装置を見てるのだから本当に忙しい。

それでも手がかりになる所作を何回か見てる方に教えてもらったりしたのと、直前に読んだ記憶を頼りに観劇を続けていった。

◆台本を読んでの答え合わせ

 そして先週私が目にしていたものの正体があきらかになっていく。特に小道具。舞台に無造作に置いてあった岩はテーブルのほかに、勤め先の宅配の荷物になるのか!3人は適当に岩を動かしているように見えながら、つぎの飲み屋のテーブルを作っていたのかなとか。哀しくも星子さんの顔に見立てたりとか。蜘蛛や蝶や描く時の目線になったり。スナックでお客さんに見立たりとか。凶器になったりとか。本物さながらに作られている大道具、小道具も面白いけれど、こういう見立ても面白い。でもそれはやっぱり台詞とセットになって補完されている。

 わたしは次第にこの劇の緻密さに舌を巻いていった。途切れなく淀みなく台詞をつむぎ続けながら、田中圭は一見、即興的に動く。例えば赤ちゃんの仕草しかり、美術の先生のオーバーアクションしかり。リズムは変えずにさっと自身を変化させるのだ。そして三日月の黒羽さんも時に秒針のごとく周回し、狂言回しのごとく語り、時にタイミングを合わせ月人へ小道具を用意する。小島さんも月人の台詞の途中で入って星子として挨拶したりする。

なんだこれ。稽古時間そんなにとれてなかったよね…?本番の舞台、そんなに使えてないよね。この3人、やっぱりすごい。

初回全然わからなかった動きが、内容が分かるとそれに気づくことができる。

(ねえ。ところで。「甲本急便」って、偶然ですかね?芸人交換日記・・いや私見ていないんですけどね。)

黒羽さんが靴を肩のあたりまで掲げていたのは、あれは…そうだったのか…分かると呆然とする。

メモ帳は…あれは説明書だったのか…。月人について書かれた説明はあたたかく、愛に溢れていた。

私にとっての初回でも月人は星子が死んだのは自分のせいだと責めているのが私にもわかった。(「僕のせいだ!」 といっているのがオペラグラス越しに読み取れた。)
どうして月人のせいなんだろうと思っていた。それが、 二人が仲良くなるきっかけでもあった、仕事で通る道路の状況の情報だったということが、 その日に限って実態に合っていなくて悲しい方向へと向かったことが、そのあとの結果とあわさって胸に詰まる。

説明書にもあった 「いつか人の顔をかけるといいな」 ということが本当になろうとしたとき、それが愛するひとの「無表情」だったなんて、 そんなことがあっていいのか。
悲痛な叫びが、一つ一つの台詞がわからなくても、感情の塊として私に刺さっていく。
そして、絵を描くことで命を与えることができる能力を手に入れて、どうなるのか初回はわからなかったけれど(スケッチブックの絵を客席に見せないから、 絵を描いている実感がなかった)、絵を描くと消えてしまうのね。 だから見せないんだ。なるほど。 舞台をぐるりと回るように瀕死の動物や植物の絵を描いては胸をつかんで痛みに耐える月人、 ここ、見ているだけではさっぱりわからなかった。

わかるとそれが途端に私にとって意味を成す場面に変わっていくから不思議だ。もちろんうろ覚えになってしまっているところもあるけれど、好きなのはどのシーン、って他の人に言語化して伝えるのが容易なのもうれしい。 話も分からないとシーンの順番もわからないのだ。だから覚えられない。

今はもう順番がわかるので初回のときの私の心の声を飲み屋のあたりから書いてみよう。

(あ、飲み屋だ、乾杯して飲んでるからわかる。デートかな?黒羽さんの持ってる柵はなに??夜景でもみてるん?あ、プロポーズした?結婚した?え、なんだか分からないけど、小島さん(役名もわからない)死んだ? 月人のせいなの?あ、首を吊ろうとしてる。いま三日月から能力を分け与えられたな、色々歩いているけどこれ何?(ここが月人が絵を描いて命を与えているシーン)、水族館?あのぬいぐるみ何?アシカ?アザラシ?(余談だが、場所も池袋だったため、出演ドラマの『キワドい 2 人』 の番宣のときのサンシャイン水族館のかわうそのぬいぐるみ思い出したのはナイショ)、小島さん演じるあの女性は何?スナック?スナックのママなの?何かをおいしそうにもぐもぐ食べてるのはわかる!将棋倒しなに?客は?(実際は抱きしめられようとされた様子、 手相を見られている様子があったけど、わからなくて覚えていなかった。)なんかちゃらい男が来たな?この男誰?小島さんの好きな人?でも月人と小島さんの赤い糸?点々で目線を結んでる?あ、殺した? (実際は 2 件の殺しがあったけど上手側のそれはわからなった)小島さんと月人が二人が言い合いをしてる?あ、だきしめた。???ついに絵を描き始めたぞ!あの男はどうして死ぬの?病気?なんかすごいセリフを言いながら書いてるぞ?書いてるぞ?あ、男が生き返った?今度は月人が月を反時計回りにぞって歩いてる、最後穏やかに話したと思ったら、あ!とびおりた?!あ?暗転?! おわり?ええ?!最後のなに?!)
…とまあ、こんな認識·...いやホント…視覚的なものも大切だけど、台詞がわからないとこんな感じなんですよ。

それが今は全部そういうことだったのかぁ!とわかる。わかるって素晴らしい…!!

◆私はここが好き

 順不同で好きなところ。

 田中圭さんはは写真撮影とかでオーラを放つとすごいし、素がリア充ぽい人に見える。しかし、この舞台で飲み屋で星子と対する月人は女の人に慣れてないそれだ。いるであろう店員に「すいません」とぼそっと謝り、ノリも悪い。完全に月人だ。このギャップがなんともいえない。そしてラストの幼くなっている風で体育すわりで、でも目には何の感情も宿っていないところ。あそこが好きだ。

 〇〇してるフリ!は哀しくも盛り上がるきっかけもなる。月人と星子同じ境遇だけれども、星子のおばさんはきちんも見抜いていて、「重い服が脱げればいいね…」とつぶやく。やさしい。ここ好き。自分を好きになれる星子さんに引き上げられて、言葉を交わし、唇を交わし、身体を重ねて、そして…月人は自分の思いをはっきり言えるようになる。人を愛するという事を知る。

 三日月の時の黒羽さんは時計回りと反時計周りに歩いているときがある。時計回りのときは過去の中でも前に進んでいるとき。反時計回りの時は過去を思い出しているとき。秒針の音がしているらしいから、それに合わせたゆったり落ち着いた歩き方。細かいなあ。ベランダの柵を回転しながらもってきて、二人が「キス」する度に「わわ☆」という顔をして客席を振り返るのがいとおしい。水族館でスクリーンをめくって現れたり、指をパチン!と鳴らすところも好き。「マリオタイム」といわれる陽介としてのアドリブはいろんな方に内容を教えてもらったけど、どうしてもその声を直接聞いていないから実感がわかなくて、それが心残り。ビームは視覚的にわかるんだけどね。狂言回しと小道具さんの役割の三日月の時は月人を飲み屋のテーブルに座らせ、ペンを置き、アシカをあやつり、スナックの客を岩で表現し、獅子奮迅。陽介の時は「かっこ悪い悪いことをちゃんと言えるひとがいてよかった」(どかないんだよ!しつこいんだよ!どんどん大きくなっていくんだよ!と激昂する月人を受けて)そして、「背負う罪悪感は一つでいいから」。

月人と三日月のかわす問いかけたち。台本を読んだとき、心の琴線にふれた。「君は気が付いているよね?」「君はどう思った?あんなに自分のことを話したの初めてだったから」「星子さんが僕のフリを取り払ってくれたんだ」「穴からひっぱりあげてくれた」「君はゆっくりと森を降りて行ったね」「前の君なら結構ですといったよね」「虹子さんは君をよく見抜く。さすが」「虹子さんは聞かなかったんだよね、星子さんが死んだ理由を」「肩肘はらずに生きていった」「君はこの街にきて描くことがすくなくなったね」「どーでもいい日々にふれ君は色を変えていった」「でもさ、まっすぐの道ってないんだよね」

水族館に「飛ぶ」前、三日月と月人は二人前を見て並んで歩き、ジャンプする。どのシーンかうろ覚えだけど、プロポーズの時か、最後の方の虹子と手をつないだシーンかな?小島さんと月人がやはり前を向いて二人並んでいるシーンがある。これは対になっているのではないか。初回の感想にも書いたけど二人並んで立つのは身長もバランスよく、とても美しかった。

星子さんと虹子さん。それぞれの笑顔で月人を癒していく。相手をよく見ていて傷つけない。タイプは違うのにやっていることは同じだ。小島さんの笑顔がとても好きだなあと思った。「伴奏します」「しんどい人生同士」「隙間に落ちている幸せをひろってみたりして」あの抱きしめて、抱きしめかえされ、「愛している」「母さん」のところがもう。

絶対に取りたくない化粧。人生の背骨・・・

◆なぜこの物語だったのか

台本をかいた鈴木おさむさんは田中圭と何回か務台でタッグを組んでいる。「芸人交換日記」「僕だってヒーローになりたかった」。そして今回。セリフ覚えが早いという事を知っているから田中圭に膨大なセリフを課す。「田中圭24時間テレビ」のラストシーンや「先生を消す方程式」でもそうだ。

今回この膨大なセリフに意味はあるのか否か。

わたしは最初はわからなかった。もう少しセリフを削ってもいいのではないかってそう思ってた。でも内容を理解して2回目に見たとき、セリフの一つ一つは聞き取れなくても、そういう内容をしゃべっているのはわかっていると、その膨大なセリフの固まりに本物の感情が宿り、見ている者の胸を打つのがわかった。そう、セリフがわからなくても、「わかる」のだ。田中圭の中にセリフが吸い込まれ、声となって紡がれるとき、それは「本物」になる。その感情のほとばしりに触れ、体の奥底から何か熱いものがあふれていくる。劇中、田中圭はけっしてオーバーアクションではない。前にも書いたが即興的に表情や所作をくるくる変えつつ、物語を織っていく。前を向くことを意識した舞台独特の風でもなく、月人としてそこにあって、語っていく。それは圧巻であり、壮大なタペストリーのごとく。目を閉じると月人のいろんな表情が脳裏に浮かぶ。前半の長台詞も圧巻なのだが、実はそれは伏線であり、星子を亡くした時の叫び、最後の絵を描きながらのセリフ、どんどんボルテージがあがっているのがわかる。ラストに上り詰めた魂は観客たちの胸に宿る。

膨大なセリフを田中圭ならモノにできる。そしてそれを本物にかえることができる。それを鈴木おさむさんは本能的に知っている。だから当て書きをしているのだ。

月人は劇中、何回かジャンプする。最後、三日月になることが決まっていて・・どこまでが月人なんだろう。何歳の時?ジャンプするたびに時をこえているのか?星子といるときは年齢相応の男にみえるのに虹子といるときは「甘えて」いるのか幼くなっていくようにすら見える。なんとも不思議な変わり身。シンプルな衣装変換(つなぎを半分脱ぐのみ)と表情でそれを表現しちゃうんだから。なんともはや。

不幸ばかりを背負っている人がいると嘆く冒頭の月人。しんどい者同志一緒にと、虹子に語り掛ける月人。でも人との出会いが自分の人生を変えると気づく月人。初めて誰かのために笑顔を描くことができた月人。ラストは小さい自分に優しく微笑みかけて、「楽しい人生が待っている」と三日月になる自分を肯定的にほほ笑む。

人生は無意味じゃない。出会うべき人に出会って変わることもある。不幸なだけの人生じゃないんだよ。そういうメッセージ。わたしはそうとらえた。

さながらフェアリーテイル。御伽噺のようで。童話のようで。絵本のようで。挿絵付きで製本された状態でまた読みたい。というかまた舞台が見たい。月人さん中毒や。

◆エピローグ

私は立ったまま拍手をし続けた。カーテンコールという言葉が無性に好きだ。役をまとっていた人たちが、コールされて、ほどけていつもの自分に帰る。達成感からのほほ笑み。それが大好きだ。かつて小さいながらも学校の舞台に立ってあいさつしたことがあるから、その達成感は比べようにもないんだろうなと思う。

先週と比べて、圭くんのなかでなにかがカチッとはまった、そんな月人に見えた。わかったからでもなくて、それは他の人にとっても同じで、スタンディングオベーションがかなりあったことからもみてとれる。

そしてわからなくてもやもやしていた自分の気持ちが「昇華」されていくのを感じた。さようなら、わからなかった自分。もちろん今も100%わかるわけではないけど、こうして心を揺さぶられている。舞台から受け取れたってことかなと思う。ほんとは字幕で見たいけど、膨大すぎて字幕追うだけになっちゃうな、アドリブも大変だよなと苦笑する。

台本を貸してもらったということ。

それは大きな意味があることであり、こうして或る俳優ファンが推しに初めて会った夏の物語は終わった。想いは届く。世界は変えられる。

不思議と初回に視覚的に「いいな」と思ったところはやっぱり今回も変わらなかった。「わかって」も視覚的にいいなと思うところは同じということか。同じ人間だからか。

目を閉じてもあの丸い舞台が浮かぶ。巨大な月が浮かんでいるのが見える。テーマが流れるのが感じられる。月人は私の中に今も住んでいる。

                          Fin


























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