「好き」との距離感。
#2 . 「好き」との距離感。
私はたぶん飽きっぽい。
だから、「好き」を維持するためにはそれなりの努力が必要だと思っているし、距離感が何より大切だと思ってる。
「音楽」ももちろんそうだし、食べ物も。人間関係もそう。
距離が近くなりすぎた時に生じる「慣れ」が苦手。
いや、「慣れ」が苦手というより、「慣れ」た時に生じる緊張感の欠如とか、それらがマイナスな方に作用するのが苦手なのかも知れない。
どんなに高級で美味しい料理もきっと、毎日食べていると飽きる。
「たまに」「特別な日に」という付加価値が付くから、よりその1回の食事が美味しいと感じるのだろうし、毎日をご機嫌に過ごすために、「好き」は自分の中にたくさん持っておきたい。
それらの「好き」を大切に、たまーに自分の中から取りだし、慈しみ、味わうひとときが好き。
どんなに好きな音楽も、どんなに好きな小説も、それらがもたらしてくれる幸福な要素が全く心に響かない日もあるし、今はちょっと聴きたくない、見たくなぁという日だってもちろんある。
だからこそ、「好き」で居続ける努力が必要だと私は思っている。
ではその努力とは何かというと、「距離感」である。
「好き」なものとの関係性を敏感にキャッチして、ある一定の「距離感」を保ちながら、「好き」を維持するというのが私にとっては大事な事なのです。
それと同時に、それが難しくもあり、失敗も多々ある。
「好き」の賞味期限が切れたものはもう「好き」に戻らないし、消費期限が切れたものに関しては全く興味がなくなってしまう。
あんなに好きだったのに、、、と自分でも思うほど、冷めると「もういいや!」ってなってしまう。
対象に冷める場合もあるし、「もうこれ以上はいいや!満足!」ってなった場合もそう。
一度興味を持つと、とことん深掘りしたくなるけど、自分の中である程度納得できる所までいくと、他のものに興味が移ってしまう。
しかもその予兆がある訳でもなく、ある日突然、プツッと何かが弾けるように、飽きるのだ。自分でも謎。
ほんと、自分でも呆れるぐらいに飽きっぽい。
人間関係に関しては、私の場合、どんなに仲の良い相手でも、気を許した相手でも、すべて見せている訳ではない。
(それは相手との関係がどうこう、という訳ではなく、家族にも見せていないコアな部分があるから、私の中では当たり前だし、他人に全てを見せるなんて不可能だと思ってる。)
だから、相手との距離が近くなって、ちょっとでも相手の自分に対する扱いがぞんざいになったり、分かったような顔をされるとか、自分に対しての尊敬がない、愛がない態度・発言をされてしまうとスーッと冷めてしまうというか、距離を置きたくなってしまう。
どんな相手でも程よい「緊張感」というのが漂っていて欲しいし、その方が良い方向に作用する場合が多い気がするから。
こと、プライベートな関係において、「素を見せる」ことと「緊張感がなくなる」ことは違う気がするんだよなぁ。
と言いつつ、「好き」との距離感を維持し続けるのはなかなか難しい。
音楽に関してはなんとか、程よい距離感でやれているから続けてこられているのだとは思うのだけど、音楽は「好き」というだけでやっている訳ではないから、これまたややこしい。
結局は自分がその対象に対してどういう状態か、どんな気持ちを持っているか、そんなシンプルな話なのだとは思うけど。
「好き」か「嫌い」かという間のグラデーションを楽しめていない私は、自分自身でややこしくしてしまっている。
こんな所もまた「私」であるから、もうこれはどうしようもない。
あ、また距離感間違えた。
っていう反省を繰り返しながら、うだうだやっていくんだろうなぁ。