有坂四郎少年を追いかけて。
12月15日、有坂成蔵のモデルとなった有坂成章が少年時代を過ごした岩国市横山へ行ってきました。
悲しいことに新書「有坂銃」が手元になく未読ですので、それ本に書いてあるでみたいなことを嬉しく書いています。多分。
そして個人的な感情や推察を多分に挟んでおり、旅の記録を兼ねた文面ですので資料としての価値がないことを初めに断っておきます。そんなこともあンだな〜くらいでお願いします。
更にnoteの使い方も雑です。問題ない方は以下へどうぞ(*ฅ́˘ฅ̀*)♡
今回訪れた岩国という地は安芸(広島)との県境にあり経済や防備の要でもある大事な長州藩の領地でした。(岩国領主吉川氏は、支藩ですらない領地扱いに納得しておらず毛利宗家との家格問題で江戸期を通してちょいちょい揉めています。最終的には多分仲良し!雑)
そんな緊張感高まる土地で育った有坂四郎少年こと、有坂成章が大阪幼年学校に入るまでの簡単な紹介を差しておきます。
嘉永5年(1852) 旧暦2月18日 岩国藩士「木部左門」の二男として誕生。
文久2年(1862) 岩国藩砲術家「有坂長良」の養嗣子となる。
慶応2年(1866) 14歳。藩校素読寮生と火攻めの遊戯を行う。自刃を試みるが思いとどまる。
慶応3年(1867) 日新隊に加入。
慶応4年(1868) 鳥羽・伏見の戦いに従軍。(父長良は西洋火術の砲術師範としての従軍。)
こんな感じで岩国での少年期を過ごしていたようです。
有坂家に入るまでの史料と藩校養老館(素読寮含む)の史料は気合いで探したいと思います。
ご存知の方はぜひ教えてください。日本ならどこでも行きます!!笑
さて、成章は幼名を四郎と言うのですが、その四郎少年が人工物の造形や物理に興味を持ったきっかけはやはり錦帯橋だろうなぁ、と思う岩国探訪のスタートでした。
岩国のシンボルでもある優美な掛橋、錦帯橋。この構造はものづくりをしている方や興味のある方なら何時間でも飽きることなく見ることが出来るのではないでしょうか。
わたしは素人ですがそれでも、どうなってるの?きれい!すごい!と幼稚な感動を得ました。幼い頃からこの橋を、景色を知っていれば記憶の底から造形への美しさに拘る思考が出来上がるのでは。と橋を渡るお金を払う前から心の叫びが止まりません。ヴェァーーァ!!
この橋を渡り5分ほど歩くと四郎少年が文武に励んだ養老館がありました。養老館は完成から30年程で大火により焼失。今は一部を遺し教育センターとなっています。
この路地の右手が藩校跡です。岩国市横山三丁目ですが、行かれる方はサンライフ岩国とか教育センターで検索して行くとすんなり辿り着きます。
サンライフ岩国の塀は立派なのでお堀の隣を歩いて左手に錦雲閣(次写真)、吉香神社と眺める景色には胸が踊りました。
四郎少年も刀を脇に指して歩いた道です。刀の時代を生きてるんですよね。時代の過渡期に柔軟な考えを得る事が出来たにはきっとこの藩校養老館での勉学、稽古に秘密がある…はず!
近くのカフェわたぼうしさんではリーズナブルに満腹度120%で美味しいご飯が食べられます。カツサンドがマジで、心から、オススメです。
錦雲閣を眺めながらの昼食は最高でしかありません。
わたぼうしさんの向かいにロープウェイ乗り場があるのですが、その裏手にひっそりと有坂長良、成章親子が致遠先生の功績を讃える石碑を建てています。
有坂致遠先生之碑。明治20年(1887)設立。
成章の祖父である致遠先生はめちゃくちゃにすごくてヤバい人です。簡単に説明すると当時の日本には和流砲術、西洋砲術が当時あわせて二十四流派あったのですがその総ての皆伝を会得して奥義を極めた方です。クレイジー!
この石碑に刻まれた文の解説文が白山比咩神社の鳥居前に掲げてありました。こちらの神社は1559年から在るそうです。
四郎少年もお参りしたに違いない、と、境内に存在する3つのお社全てにお賽銭を入れ、有坂閣下とのご縁を何でも良いので繋いでください。とお願いしましたが、この後、爆速で叶いました。
ご利益、あると思います。
(この後、東沢瀉や国木田独歩の石碑を見たり、ロープウェイに乗ったりして普通に観光しまくりました。お城には室町時代のものから無銘のものまで数多くの刀剣が展示されているので好きな方には刺さるかも。)
そして最後に岩国徴古館へ寄って帰ったのですが、そこで職員の方から知らなかった有坂成章の話が聞けました。(なんと佐古先生の生徒さんだそうで羨ましいかぎりです(*ˊᵕˋ*)੭ ੈ❤︎)
この資料館は建造物の設計、歴史としても大変興味深く第二次世界大戦中の着工、竣工となっています。詳しくは本記事では省きますが戦下において文化を大切にされたいと強く望んだ吉川氏への感謝無しにはいられませんでした。
中に入ると、めちゃくちゃアナゴさんの声が聞こえます。仙台城のデジャヴを感じたのですが……
若本規夫氏の語り、って書いてありました。若本さん、この手の仕事たくさん受けられいるんですね。突然のほっこりでした。笑
資料館でしか買えない資料を求めてとりあえず団兵御仕成記という幕末期の農民兵簿録を全巻購入しました。
そこで冒頭で紹介した「自刃を取ろうとした有坂成章」の話を伺いました。断定資料を持っていないので逸話程度として留めてくださると嬉しいです。
詳しくは群児招魂碑(http://kankou.iwakuni-city.net/syounenshi.html)の解説を参照して欲しいのですが、雑なまとめは以下です。
・1866年11月18日(旧暦)、戦争訓練のため8~14歳の藩校生が30余名参加
・火攻めの訓練のために着火が突風に煽られて火が四方へ燃え広がる。藩の砦を守るため少年たちは消化活動をするが、砦の無事と引き換えに16名が死亡
・生き残った年長者のうち4人が自刃により責任を取ろうとしたが、大人たちの慰めにより思いとどまった。
という痛ましい事件です。
この自刃を取ろうとした少年の1人が有坂四郎だったと聞きました。大人が掛けた言葉は「生きてその命を使って忠を果たしなさい」というものだったそうです。
めちゃくちゃ金カムを感じるワードを岩国探訪の最後に聞けると思っておらず、身震いがしました。
14歳で自刃の決意をするほど責任感が強く、逃れられない真面目さを持った方なのだと思いました。そして、幼くして戦争にまつわる事柄でご学友が目の前で多く亡くなられた無念は一生涯の苦しみであった気がします。
「国家に役立つ仕事が出来れば、一身の栄達などどうでも良い」と21歳で言いきれる強さ。1度死んだ人間だから折れることなく進み続けられたのかな、と少しだけ新しい有坂成章を見る角度が増えたお話でした。
新しい情報などないですし素人の個人趣味による自己追求なので、有坂閣下しゅごいいいいって思ってくれる人が1人増えてくれたら幸せです。
ゴールデンカムイを読むまで知らなかった有坂成章という人ですが、魅力の塊過ぎてヤバいです。
成蔵さんも大大大好きです。もう顔が好き。丸い背中とか、ギザギザの歯とか、飛ぶ唾とか、全部可愛い。
ちゃんと別物だと思うようにしていますが少し投影してしまいます。間の世界で楽しく生きていたいです。巡礼うめえよおおお。また岩国行きますーー!
白山比咩神社さんにもお礼に行きたいし、わたぼうしさんのカツサンドも食べたいです!
最後まで読んでくださった方、本当に本当にありがとうございます。それではまた。
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