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マジシャンと拍手

イチゴを食べて泣いたことがある。

大学の頃、教授がどこかのもらいものかなにかのイチゴを持ってきて振る舞ってくれたことがある。一粒で牛丼が食べられるようなめちゃくちゃ高いイチゴ。

幼少期からほとんど家でフルーツが出てこなかったこともあって本当に久方ぶりに食べるその品のいい甘さに僕はかなり感激して、思わず美味しいです!とその教授に叫んだ。
すると、隣の友人が、藤村、涙でてると教えてくれた。知らぬ間にイチゴを片手に僕は泣いていたのた。
そんな僕をみて、別の友人が大げさ!と笑った。

その瞬間は僕は色んなことが一気にわからなくなる感覚に襲われたのを覚えてる。

というのも、僕はこれがほんとうにイチゴからくる涙なのかどうかわからなくなったのだ。

なにかが場で起こるとき、心のどこかに成立させないと!という気持ちが芽生えることがある。
友人から映画を勧められたらおもしろかったといってしまい、どんな居酒屋でもいいお客さんであってしまうし、よくしゃべるタクシードライバーに当たったら眠たくてもしっかりと受け答えしてしまう。

あんまりいいことではないとわかっているけれど、なんというかすべての行為に演技が入っている気がする。
それはもう情景反射的に。

別に八方美人とかそういうわけでもないと思う。
ただ誰かが日常生活のなかでパフォーマンスをしているところに出くわすとそれが多かれ少なかれ僕は感情を上書きしていい聴衆モード発動って感じである。

こんなことを思いだしたのには理由があった。
最近、最寄りの駅のアーケードに僕と同い年くらいのマジシャンが出現しているのだ。
丸い水晶を手のまわりで重力を無視した動きをしながらクルクル回して、それに、興味を持ったカップルや飲み帰りの集団や子供に、他にもこんなことができますのよと、カードマジックを披露している。
駅前などの路地などに場所を変えながら毎日毎日同じことをしているので、やり口を覚えてしまったほどだ。このマジックの次はあれねみたいな。

僕はもちろんこのマジシャンの前にとどまったことはない。同い年で楽しそうに自分の夢を追って人を楽しませてる彼が羨ましくはあるけれど。
でも、もっと羨ましいのはその止まって見ていくお客さんたちの方なのだ。

向こうはマジシャンとしてもまだ素人だろう。。
間違えるかもしれない、種がわかってしまうかもしれない、要領が悪く退屈させるかもしれない。
そんなリスクがあるパフォーマーの前で僕は絶対聴衆にはなれない。
こっちのリスクが大きすぎるのだ。
彼らはそんなこと考えないんだろう。こんなめんどくさいこと。めちゃくちゃ羨ましい!!
僕もそっち側の人間になりたい。シンプルな感情でちゃんとリアクションがとれる普通の聴衆に…

僕は何度も自分があのマジシャンの前に立つ想像をする。でも何度しても拍手のタイミングが早かったり驚き方がわざとらしかったりするようだ…

今日も彼はいつもの通りでクルクルと水晶を回している。
仕事帰りの僕がそんなことを考えながら彼の前を通っていることを知ることなしに。



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