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きれいな文字

「人の筆跡には、その人の人柄が宿る」みたいなことを時々、人は口走ると思うのだけれど、(否定は全然しないけれど、大抵の人の行動にはその人が映ると思う)そういった言葉を聞くと、自分の書く文字を思う。

字はきれいな方だと思う。絵を書くことや工作をすることはあまり得意ではないけれど、字はそこそこ上手に書ける。とても練習したからだ。

小学1年生の頃、夏休みの宿題で、鉛筆で原稿用紙半分くらいの文章を転写するような課題があった。中学年・高学年とあがるとある習字の授業の導入のような形だった。夏になる前、教室で、こうやるのだと、一度、クラスのみんなでその文章を一度書く時間があった。正方形の間に、縦横の真ん中に一本ずつ点線が引かれ一文字ずつのバランスがわかるようになった用紙に習ったばかりのいくつかの漢字以外はほとんどひらがなで書かれたお手本の文章を書いていく。要領がなにをしても悪く、背だけひょろっと高かったその時の僕は、隣に座っていた運動のできるSくんに、「きたねー」「へたくそー」「もっとゆっくり書けよ」と言われ続けながら、文章を書き切った。そこで自分は文字を書くのが下手のだと自覚したことを覚えている。

夏休みになって、その練習があることを母親に言い、書き始めると母も僕の書いたうねうねとした言葉を伝えることを拒んでいるようなみみず文字を見て、文字くらいきれいに書きなさいと叱咤した。それから、それを消しゴムで全部消し、練習用のノートを持ってきて、同じ文章をもう一度、書くようにといった。書いては、もう一度、書いては、もう一度と。それから、来る日も来る日もその夏休み、僕は文字を書く練習ばかりしていた。途中からは自分の意思で自由研究やほかの宿題のことは放っておいて、なぜだか、普通にやれば30分もかからないその鉛筆転写の宿題をやり直し続けたのを覚えている。

秋になり、その用紙を提出する授業になった。僕は、何度も何度も書き直し、空で言えるほど見た文章の清書を先生に渡した。Sくんは、宿題を忘れてきていた。先生はいまここで書いちゃいなさいと白い用紙を彼に渡した。隣の席でガヤガヤと言いながらSくんが書く用紙がふと、目に入ると、それはほとんど読めるものじゃなかった。

「人の筆跡には、その人の人柄が宿る」らしいけれど、僕は手書きで書くとき、その6歳かそこらの自分の記憶を思い出す。夏を経て日に焼けたSくんの快活な笑顔と、やたらきれいな僕の文字。

今日も僕は、きれいな文字を書く。人生、こんなことばっかりだ。

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