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グルジェフの言葉 ~人間・言語【例『世界』】・記憶について~


「人間は真っ白な紙のような状態でこの世界に生まれてくるが、
たちまちまわりの者たちと競って互いに汚し合い、教育とか道徳、
あるいは知識と呼ばれている情報、それに義務だとか名誉、良心等々、
ありとあらゆる感情で満たされるようになる。

そして彼らはみんな、一人一人、こういった枝葉を幹に、
つまり人間の人格と呼ばれる幹に接ぎ木する際に用いる方法として、
不変性と完全性を要求するのである。

紙は次第に汚れてくるが、汚なくなればなるほど、
つまり人間がはかない情報や、義務とか名誉とかいった観念を、
他人からほのめかされたりやかましく教えられたりして
詰めこまれれば詰めこまれるほど、
彼はまわりの者から〈賢明〉で立派だと考えられるようになる。


このように人々が彼の〈汚れ〉を功績とみなすのをみているうちに、
彼自身も必然的に、この汚れた紙を同じような見方で見るようになる。
というわけで、我々が〈人間〉と呼んでいるもののモデルができあがった。
これにはしばしば〈天の贈り物〉だとか〈天才〉だとかいった言葉が添えられる。
しかしこの我らが〈天の贈り物〉の気分たるや、朝目を覚ました時、
ベッドのそばにスリッパがなかったら気難しくなってしまうような代物なのだ。
普通の人間は、表現行為においても気分においても、
生きている間中自由ではないのである。
彼は自分がなりたいものにはなれない。
彼は自分でそう考えているものとは違うのだ。
人間、何と力強い響きであろう!

〈人間〉なる語はまさに〈創造の極地〉を意味している。

しかるに……いったい現代人はこの称号にふさわしいだろうか?
しかしともあれ、人間は本当に創造の極致でなくてはならない。
なぜならば、人間は、宇宙全体に
《存在するすべてのものの創造者》の有するデータと
全く同じデータをすべて獲得する可能性をもっている、
いやむしろその可能性自体で形成されているからである。


〈人間〉の名に値するためには全一にならなくてはならない。

そうなるためには、まず第一に、
自分の身体全体を構成しているそれぞれ独立した部分から生じる、
疲れを知らない粘り強さと抑えようにも抑えきれない欲求という衝動をもって、
つまり思考、感情、有機体的本能から同時に生じる欲求をもって、
自分自身に関する全般的な知識を獲得するよう努めなくてはならない。

そしてその後、自分の中に定着した主観性の中にひそむ欠点、
およびそれと闘う可能性を有する明確な方法に関して、
自分の意識だけを使って得た結果を土台として、
自分自身に対していかなる容赦もせず、
この欠点を根絶することに全力をあげなくてはならない。

いかなる偏見も排して率直にいえば、
我々の知っている現代人は時計仕掛けの装置以上でも以下でもない。
ただしその構造はきわめて複雑である。
人間の機械性に関しては、あらゆる角度から、
すべての偏見や先入観を捨てて深く考え、
そしてよく理解しなくてはならない。

そうすれば、この機械性およびそれが引き起こすすべての結果が、
自分の将来の生活にとってのみならず、
自分の誕生と生存の意味と目的を正当化する上で、
いかなる意味と重要性をもっているのかが完全に理解できるであろう。

人間の機械性全般について研究し、明確にしたいと望む者にとって、
最良の研究対象は自分自身、つまり自分の機械性である。

そしてこれを実際に、ただし〈精神病的〉にではなく、
つまり身体のどこか一部分でだけではなく全存在でもって研究し、
明瞭に理解することは、正しくなされた自己観察の結果としてのみ可能なのである。
さてそれでは、この自己観察を正しく行なえるように、つまり、
適切な知識ももたずにこれを行なう人々に時おり見られるような
有害な結果を誘発する危険を冒さないでこれを行なえるように、
ある種の警告をしておく必要がある。

これは同時に情熱過多を防ぐためにも必要であろう。
その警告とは、我々のもっている広範かつ正確な情報に基づいた経験が示すところによれば、
自己観察は一見して思えるほど簡単ではないということである。
だからこそ我々は、
正しい自己観察の土台に現代人の機械性の研究を置くのである。
機械性および正しい自己観察の諸原則を研究する前に、
人間はまず次のような断固たる決意をしなくてはならない。

すなわち、
自分に対して絶対的に誠実であること、
いかなるものにも目をつぶらないこと、
どんな結果が生まれても回避しないこと、
いかなる推論も恐れないこと、これまで自分で自分に押しつけてきた限界で自分を縛らないこと。

そして第二に、
この新しい教えの信奉者たちがこれらの原則に関する説明を適切に受け止め、消化吸収できるように、
これにふさわしい形態をもった〈言語〉を造ることが必要である。
というのも、現在使われている言語の形態はこのような説明には全く適していないことが判明したからである。

これを始めるにあたって、
第一の条件に関してもう一度注意を促しておかなくてはならないが、
自己観察の原則に従って考えたり行動したりすることに慣れていない人は、それから導き出される推論を真摯に受け止める勇気をもち、
そして決して落胆してはならない。

それを甘受し、自己観察に絶対必要な持続力をさらに強めて、
これらの原則に従って続けていかなくてはならない。
こうして導き出された推論は、
人間の内部深くに根を張っている確信や信念、
それに彼の通常の思考活動の全体系をいわば
〈ひっくり返す〉かもしれない。


もしそうなると、
これまで彼の生活を穏やかで安楽なものにしてきた基盤である、
いうなれば〈彼の心にとってかけがえのない快適な価値〉
そのものが、根こそぎ、
しかも恐らくは永久に奪い去られてしまうであろう。


正しい自己観察を行なえば、その最初の日から、
まわりの文字通りすべてのものに直面した自分が、
完全に無力でどうしようもない存在であることを明確に把握し、
疑いの余地なく納得するであろう。

彼はあらゆるものが自分を支配し、
指図していることを自己の存在全体で確信するだろう。
彼自身は何も支配したり指図したりできないのである。

彼が引きつけられたり反発したりするのは、
彼の中に何らかの連想を生じさせる力をもっている生命体だけでなく、
ぴくりとも動かない無生物からも彼は影響を受けるのだ。

現代人からはもはや分離できなくなっている衝動、
すなわち自己空想癖と自己沈静を脱するならば、
彼は、自分の人生とはすなわち、
この誘引と反発に対する盲目的な反応にほかならないことを悟るであろう。

そして自分のいわゆる世間体とかものの見方、性格、嗜好等々が、
どのようにして型にはめられてきたか、
つまりいかにして自分の個人性というものが形作られ、
またどのような影響を受ければその細部が変わるのかをはっきりと理解するであろう。

次に第二の必要不可欠な条件、
すなわち正確な言語の構築についてであるが、
これは次のような理由から必要である。

比較的新しく造られ、いわば〈市民権〉を獲得した言語、
すなわち我々が現在話したり、知識や観念を他人に伝えたり、
本を書いたりするのに使っている言語は、我々の意見では、
多少とも正確な意見交換にはもはや全く用をなさなくなっている。

現代の言語を構成している語彙は、
人々がそれに勝手な意味をくっつけて使うために、
不正確であいまいな考えしか伝えることができず、
そのため平均的な人々はこれを〈伸縮自在に〉受け取っている。
人間が生きていく過程でこの異常な事態を生み出していることに関しても、我々の見るところでは、やはり例の、成長しつつある世代に対する歪んだ教育制度が一役かっている。

なぜこれが一役かっているかというと、この教育制度は、
前にも言ったように、
若者に強制的に〈丸暗記〉させることを、
それもできるだけ多くの言葉を、
それにこめられた意味の精髄によってではなく、
単にその響きから受けた印象によって区別できるように丸暗記させることを基礎にして成り立っているからである。

その結果人間は、自分が話していること、
あるいは耳にしていることについて、
熟考したり省察したりする能力を徐々に失ってきた。

こうしてこの能力を失いはしたが、それでもなおかつ
自分の考えは多少とも正確に他人に伝える必要がある。

そこで彼らは、現在使っている言語にはすでに無数に近い語彙があるにもかかわらず、他の言語から言葉を借りてくるか、
さもなくば次々に新しい語を造り出さざるをえなくなった。
その結果どういうことが生じたか。

例えば現代人がある考えを表現したいと思い、
それに適する語もたくさん知っていたとする。

そこで彼は、頭であれこれ考えた結果最も適当と思われる語を使って
この考えを表現するが、それでもやはり自分の選んだ語が適切かどうか
本能的に不安になり、それで知らず知らずのうちに、
この語に自分だけの主観的な意味を与えるのである。

つまり、一方ではこのようにすでに自動化された言語の使用があり、
また一方では、ほんのわずかの時間でも
能動的な注意を集中する能力が徐々に失われてきたために、
平均的人間は、言葉を口にしたり聞いたりする時には、
その語が伝える観念のある一部をわれ知らず強調し、
そのことだけを考えるようになる。

つまり必ず、その語が意味するもの全体を、
それが示す観念のある一点に集中させるのである。
言いかえると、彼にとってのその語の意味とは、
ある一つの考えが示唆するもの全体ではなく、
彼の中で流れている自動的な連想の中でその時たまたま生じた考えと偶然最初に結びついた意味にすぎないのである。

だから現代人が会話の中である一つの語を使ったり聞いたりしても、
時によってその語に全然違う、あるいは矛盾する意味さえ付与するのである。
このことに多少とも気づき、観察の仕方をある程度知っている者であれば誰でも、ある二人の現代人の会話に第三者が加わった時にとりわけはっきりとこの〈悲喜劇的な音の饗宴〉を確認することであろう。

彼らはみな、このいうなれば〈内容の空っぽな言葉の交響曲〉の中で
中心的な意味をもつに至った語に、
すべて各自の主観的な意味をつけ加えて話しているので、
公平無私な観察者の耳には、
昔の『千一夜物語』の中のシノコーロービアニアンの話の中の
〈耳ざわりで幻想的な馬鹿話〉と呼ばれているものとそっくりに聞こえるのである。

こんな具合に会話しながらも、現代人たちは、
自分たちの考えを互いに伝え合い、互いに理解し合っていると想像、
いや確信しているのだ。

また一方で我々は、心理学的、生理学的、化学的実験によって確認された
多くの疑う余地のないデータに基づいて次のように断定する。

現代人が今のまま、つまり〈平均的人間〉であり続けるかぎり、
どんなことを話し合おうと(話題が抽象的であればなおさらそうだが)
同じ一つの言葉で同じ考えを心に抱いて理解し合うことは絶対にないし、
したがって実質的な意思疎通ということもありえない。

まさにそれゆえに、平均的現代人は、思考活動を引き起こした諸経験や、
また状況さえ異なればまわりの者に非常な恩恵を与えたかもしれない
何らかの論理的な結果を生み出した内的な経験、いや辛い経験でさえも、
外に向かっては表現せず、ただ自分自身の中で、
いわば〈奴隷的、抑圧的要素〉に変えてしまうのである。

その結果、個々人の内的生活はますます孤立し、
人々が集団で生存する上で欠くべからざるいわゆる〈切磋琢磨〉は消えていく一方である。

熟考し、省察する能力が失われてくるにつれて、
平均的現代人が会話の中で、その響きだけに慣れ親しんでいる語を聞いたり使ったりするとしても、彼らはちょっと間を置いて考えてみようとはせず、
また相手はその語によって正確には何を意味しようとしているかなどといった疑問は頭に浮かびさえしない。
つまり自分も相手もその語の意味をよく知っていると頭から決めてかかっているのだ。

ただ、全くなじみのない言葉を初めて聞いた時には
彼も疑問をもつであろうが、その時でも、
その耳慣れない言葉をなじみのある響きをもった言葉に置きかえることで満足し、
それで自分はその言葉を理解したと思いこんでしまう。
これまで話したことを腹の底から納得していただくために、
ひとつすばらしい例を取り上げてみよう。

それは現代人が恐ろしく頻繁に使う言葉、〈世界〉である。

この〈世界〉という言葉を聞いたり使ったりする時、
何が自分の思考の中をよぎるかをつかまえることができるならば、
そしてもちろん彼らが誠実であればだが、彼らのほとんどは、
その言葉はいかなる正確な意味も自分には伝えてこないことを認めざるをえないであろう。
聞きなれたその響きを耳で聞くだけであれば、
彼らはその言葉が意味しているものは当然知っていると仮定し、
「ああ、世界か、何のことかもちろん知っているよ」とでもいわんばかりに、ほとんど注意も払わず安らかに考えを続けるのである。

もし誰かがあえて彼らの注意をこの言葉に向けさせて、
それで彼らが何を理解しているかを徹底的に調べてみるとすれば、
まず彼らは単純に、いわば〈ドギマギする〉が、すぐにもち直してすばやく自分を欺く。

つまり最初に心に浮かんだその言葉の定義を
あたかも自分のものであるかのように口にするのだが、
事実はもちろん、そんな定義のことなど考えたこともなかったのである。


もし相当の力をもっている者が、現代人のあるグループ、
それもいわゆる〈良い教育〉を受けた人々に、
〈世界〉という語をどう理解しているかを厳密に言わせたと仮定すると、
彼らはみなきっと〈要点にはさっぱりふれずにああだこうだと言う〉ので、それを聞いている彼は思わず、ヒマシ油の思い出さえも優しい気持ちで思い出すであろう。

例えば天文学の本を何冊か読んだことのある者は、
『〈世界〉というのはたくさんの惑星にとりまかれた無数の太陽からできており、その諸惑星も互いにものすごく離れて位置していて、
全体でいわゆる〈銀河系〉を形成している。
その向こうには、我々の探索できる空間をはるかに超えたところに、
恐らく他の星雲と他の世界があるだろう』と言うのであろう。

別の、現代物理学に興味をもっている者は、
『世界は物質が体系的に進化したもので、それは原子から始まって惑星とか太陽のような巨大な結集体にまで至る』と言うであろう。
ことによれば彼は、原子やエレクトロンの世界と太陽や惑星の世界との類似性の理論にまで話を進めて、
その延長線上であれこれ言うかもしれない。

また別の、何らかの理由で哲学を趣味にし、
これに関するガラクタなら何でもかんでも読んでいる者なら、
『世界は我々の主観的な想像力の産物にすぎず、例えば我々の地球も、
そこに存在する山も海も植物や動物の王国も、すべては見せかけの世界、
幻影の世界だ』と言うであろう。

最近の多次元空間の理論をかじっている者なら
『普通世界は無限の三次元空間とみなされているが、
実際はそのような三次元世界は存在しえず、
別の四次元世界のある想像上の断面図にすぎない。
そして我々の周囲で生起するものはみな、この四次元世界から生まれ、
またそこへ還っていくのだ』とでも言うであろう。

世界観を宗教教義の上に据えている人間は、
『世界とは、神がお創りになり、彼の意志に依存している、
目に見えるものも見えないものも含めた存在するすべてのものであると言い、さらには、目に見える世界での我々の生ははかないものであるが、
不可視の世界では、可視の世界に存在していた間に行なったすべてのことに対して報酬ないしは罪が与えられ、そしてそこでの生は永遠に続く』などと言うだろう。

心霊術にかぶれている者は、
『この目に見える世界と隣り合わせに、もう一つの世界、
すなわち〈彼方〉の世界が存在しており、この〈彼方〉の世界に住む人々との交流はすでに確立している』と言うであろう。

神智学に熱をあげている者は、さらに進んで、
『互いに浸透し合った七つの世界が存在しており、
先に行くにしたがってより精妙な物質で作られている』とでも言うだろう。

要するに、現代人の誰一人として、
〈世界〉という語の真の意味に関して、すべての者が受諾できるような、
正確で確固とした唯一の概念を述べることはできないのである。


平均的人間の内的な精神生活というのは、結局のところ、
以前に受け取った種々の印象が、
その時体内に生じていた何らかの衝動の働きによって、
彼の中にある3つの異なる部位あるいは〈脳〉の全部に固着し、
その印象から生じる2つか3つの連想の流れが〈機械的に接触〉するという、ただそれだけのことにすぎない。

この連想が新たに活動を始めると、つまりそれ相応の印象が
また記憶にのぼってくると、人間は、内部の、あるいは外部からの
偶発的なショックに影響されて、
別の部位でそれらの連想が引き起こした同種の印象が
再び繰り返され始めるのをはっきりと確認するであろう。

普通の人間の世界観がもっている特殊性、
および彼の個人性の特徴的な性質は、
新しい印象が入ってくる瞬間に彼の中で活動している衝動が生み出す結果と、これらの印象が反復して生じるために確立した自動性とによって決定される。
そしてまさにこれこそが、
平均的人間でさえ受動的な状態にある時にはいつでも感じられる不条理、
つまり彼の中で互いに全く関連のないいくつかの連想が同時に流れるという不条理を説明してくれるのである。 

今言った人間の体内のこれらの印象は
(すべての動物の中に装置があるのと同様)
彼の中にある3つのいわば装置が、
7つの〈惑星の重心振動〉と呼ばれるものを受け取る知覚器官として働くことによって知覚される。
この3つの知覚装置の構造は細部に至るまで同じである。
これらの働きは、ロウを塗布してきれいに磨かれたレコード盤に喩えることができる。

こうしたレコード盤(あるいは〈テープ〉と呼んでもいいが)には、
人間がこの世に誕生した最初の日以来、いや、実は母親の胎内で育成されている期間以来、受け取った印象はすべて記録されるのである。

このメカニズムを構成している別のいくつかの装置も、これと同じく、
自動的に記録する機能をもっている。
そのため新しく入ってきた印象は、
それ以前に受け取られた同種の印象と一緒に記録されるのに加えて、
これら新しい印象と同時に受け取られた別種の印象とも一緒に記録されるのである。

このように、経験された印象はすべてある場所、
あるいはあるテープに刻印され、しかも変化を受けずに保存される。
このようにして知覚された印象は次のような特性をもっている。
つまり、同種、同質の振動と接触すると、いうなれば〈目を覚まし〉、
そして最初にその印象を生み出した活動と同種の活動を彼らの中に再現するのである。
知覚された印象の反復はいわゆる連想というものを生み出す。
そしてこの印象が反復的に再現されたものの一部は、
人間の注意という領域に入りこむ。
〈記憶〉と名づけられたものを条件づけるのは、
実にこの印象の反復再現なのである。

平均的人間の記憶は、調和的に完成した人間の記憶に比べると極めて不完全なもので、そのため、責任ある存在として生存する間にこの印象の貯蔵庫を利用しようとしてもうまくいかない。

平均的人間は、受け取った印象から形成される記憶の助けを借りても、
貯蔵された印象全体のほんのわずかな部分しか利用できないし、
またいわば跡をたどることもできない。
ところが真の人間がもつにふさわしい記憶は、
いつ受け取ったものであろうと例外なく、
すべての印象を記録しているのである。
これまで多くの実験がなされた結果、
以下のことが疑問の余地なくはっきりと確認された。

すなわち、ある状態、例えば催眠状態のある段階にいる人間は、
それまで彼に起こったことを、驚くほど細部に至るまで思い出すことができる。
周囲の細かい状況や、人々の顔や声、それどころか自分の人生の第一日目の様子まで、人々の目から見れば無意識といえる状態にある間に思い出すのである。

人間がこのような状態にある時には、
彼の全機構の一番ぼんやりした片隅に隠れているテープでさえも人工的に動かすことができる。
しかしこれらのテープはしばしば、何らかの経験によって引き起こされた
明らさまな、あるいは隠されたショックから影響を受けると、
ひとりでに巻き戻り始める。
そして突然、長い間忘れていた風景や情景、顔、そういったものが眼前に浮かんでくるのである。

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