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#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門「窓をめぐる物語」第8話 ブラウス(2)

先生はお客さまからのリクエストやその時々のお店の雰囲気に合わせて、ピアノを演奏しました。空気に溶け込むようにクラシックやジャズを弾いたり、おしゃべりにぴったりの伴奏をしたり。私はその様子に見とれずにいられませんでした。ピアノを鳴らすことは私にもできますが、先生はその音色やリズムの中で、指先から身体まですべてが美しく動きます。ただ少し、こわさも覚えました。特に雪が深く降り積もった日、ピアノの弾く先生が、大きなガラス窓の向こうにある静けさの中へ吸い込まれそうに感じるのです。 

私は、カフェでアルバイトをするようになっていました。忙しくなった時に手伝ったのがきっかけですが、ここへ通う口実のようなものでした。カウンターの真ん中から端っこへ、座る位置が変わったくらいのことです。よくいらっしゃるお客様の顔は、決まってかけられる席と一緒に覚えました。限られた席数ですが、不思議とその席は重なることがありません。

今にも雪が降り出しそうな日の午前、別荘に滞在中の女性のお客様が、スーパーの帰りに来店されました。いつも奥のテーブル席で、冬の空とコーヒーの香りを交互に味わうように一息つかれます。お客様が帰られてから、雲はますます重そうに広がっています。カフェのドアが開けられる気配もなかったので、私は以前から少し気になっていたことを先生に聞きました。

「そういえば先生は、ずっとこの町に住んでいたわけではないんですよね?」
「そうよ。コンサートで初めて来たの」
先生の洗うグレープフルーツやリンゴの香りが、うす暗い店内に流れ出します。
「どうしてこんな雪深いところに住むことにしたんですか?」
「ここで彼と出会ったのよ」
「あ、先生の」
「そうよ」
子供だった私にピアノを教えていたせいか、先生はふわりとほほ笑みながらゆっくりと話します。でもその時、弾かれたように飛んでくる返事はまるで知らないものでした。

「初めて彼と会ったのはこの町のホールなの」
「子供の頃にピアノの発表会をしていたホールですよね」
「そうね」
小さなホールですが図書館や会議室も併設され、この町の人なら何かと利用する場所です。
「音楽大学を出たばかりだったから、演奏させてもらえるチャンスを何とか見つけてはそれをこなす毎日だったの。レストランや小さなイベントなんかでね。その頃にあのホールが建てられて、若手にも演奏のチャンスをくれたのよ」

先生のパートナーの男性と、私は数えるほどしか会ったことがありません。会ったというよりただ見かけたのですが、その雰囲気は記憶に残っています。ピアノのレッスンで自宅に通ってくる子供を前にして、話しかけもしなければ、緊張させることもない男の人です。そういえば一度、学校の帰り道に遠くから見たことがあります。着ている上着しか目に入ってこないような人でした。

「たしかパートナーの方は」
「画家よ」
蛇口をひねるみたいに感情のない言い方です。
「彼はね、一日目のコンサートで後ろの方の席に座っていたの。それが二日目も来て、今度は最前列の真ん中に座っていたの」
「先生を、好きになったからですね」
「え?」
「だって、後ろの席から一番前まで移動するなんて」
外は時間が分からないような薄暗さに覆われています。先生は話し続けました。

「初めて二人で会った時、あの人はとても緊張していたの。やせているから何だか枝がシャツを着ているみたいだった。そうそうきっかけはね、二日目の演奏の後に舞台下から花束を渡してくれたの。素晴らしい演奏のお礼がしたいって、食事に誘ってくれたのよ」
「食事に?」
「昔、町の通りにあったレストランにね」。

やはり雪が舞い始めました。私は外を見ながら記憶に埋もれていたレストランを思い出します。確か中学生の頃まであって、家族で何度か訪れたこともありました。テーブルに置かれた赤いガラスのキャンドルホルダーや、洗練されたカーブの白い食器、味と香りがやわらかに重なる特別な料理を子供心にも楽しみました。

「どんな話をしたんですか?」
「何だったかもうよく覚えていないわ。ただお酒を飲むうちにずい分感じが変わったのよ」
「実はおしゃべりな人だった、とか?」
子供の頃のイメージと反対のことを言うと、先生は小さく笑いました。
「冷え切った身体に血が通うような感じかしら」

「でもやっぱり最初は緊張して、目を合わせられなくて、それでジャケットから出ている彼の指や手首の関節なんかを見てたの」

どうしてか私は迷子のような心細さを感じ始めました。

「ピアノを弾くからか、つい人の手や指を見てしまうことはあるんだけど、でも彼の場合は不思議なことが起きたのよ」
「不思議なこと?」
「話しているうちにね、その骨ばった感じがどうしてなのか目立たなくなったの。そうね、氷が溶けだすみたいだった」

外の雪はやんだのか、ダークブラウンのカウンターにわずかに明るさが戻りました。

「そのデートで、話は、はずんだんですか?」
「もちろん。デザートを食べてコーヒーを飲み終えるころには、すっかりリラックスしていたもの」
カウンターの中にいる先生のところまで外の明るさが届き始めました。
「最後に私を描きたいと言われたわ」
「絵のモデルに?」
やはり画家は美しい女の人がいれば描いてみたいものなのでしょうか。
「それでね、コンサートの時と同じ服を着て来て欲しいと言われたの」

大きなガラス窓を通して、雲が急速に切れていくのが分かります。

「それはピアノを弾く先生の姿を描くために?それともコンサートのドレスが先生によく似合っていたからとか」
「かけだしのピアニストだもの、そんなドレスは持っていないわ。ごくありきたりよ。肩から袖口までがふんわりした白いブラウスと黒のロングスカート。いつもそればかり着ていたの」
「じゃあやっぱり演奏するところを?」
「それがね、結局、窓辺になったの。腕を窓にかけた横向きのポーズ」

そういえばいつも先生が着ているブラウスも、肩から袖がゆったりしたものです。

「パートナーの方は今も絵を描いているんですか?」
「ええ、そうよ」
光の角度で、カウンターの中にいる先生の表情がはっきりしません。
「でも今はね、もうひとつの場所で描いているの」
「もうひとつ?」
「ええ、もうどのくらいになるかしら」

先生が誰に話しているのかふと分からなくなります。先生と大きなガラス窓との間にはさまれた私は、やはりとり残された気がしました。
「先生?」
「そうそう、春の演奏会で出会って次の春に結婚したわ。それから何年かした頃に言われたのよ」

(アトリエを持ちたいんだ)
「理由は何だったかしら。作品や画材が増えてしまって、アトリエに使っていた部屋ではもう狭いとか、そんな話だった」
(一体どこにアトリエを作るの?)
(もっと静かなところだよ)
(田舎の小さな町なのに、ここより静かなところなんてどこ?そんなのもう山の中くらいよ)
(僕が行きたいのは山の中だよ)

「いつもは口数の少ない夫がその時は、はっきり言ったの。まっさらな雪に足跡をつけるみたいに」
「あの、ご自宅から山の中のアトリエまでは、そんなに遠いんですか?」「え、どうして?」
「なんとなく、そんな気がして」
「この道をただまっすぐ行ったところよ」

ドキリとしました。ガラス窓の向こうで今、影の様にしか分からないその道の真正面に、先生はさっきからずっと立っています。

「パートナーの方はこのお店には来られないんですか?」
「雪が深くなる時季はね。アトリエに行ったきりだもの」

「彼がアトリエのことを言いだしたのは春の終わりだったかしら。夏と秋が過ぎて、冬になって、雪が降り出す頃には本当に山の中にアトリエが完成したの。天井はずいぶんと高いけれど小さな建物よ。玄関を入ったら、廊下の左側が絵を描くスペースで、右側は絵の保管と画材をしまう倉庫、あとは奥にトイレやバス、キッチンがコンパクトにあるだけ。周りは何にもないわ。車で入れる道が途切れる、山との境目みたいなところだもの。ただ山奥から出てきたみたいに大きな木が何本かあるの」

窓の外の1本道を、私はそのずっと先まで行ったことがないと思います。

「彼はね、心変わりしたのよ」
ふいに投げ込まれた言葉は、意味を表さないかたまりのまま私に届きました。先生は何も言わずカウンターから出ると、ガラス窓に近づきました。外の景色には目をやらずピアノの前の椅子にすとんと座ります。糸が切れた操り人形のように。
「冬になって、雪が降り始めるとまるきり帰ってこなくなるの」
外の雪は止んで、時間を推しはかれない雪景色が広がるばかりです。
「どう、して、ですか?」
先生は笑いました。私の変な言い方のせいか分からないけれど、笑いながら首をかしげる少しおかしな笑い方です。
「私も初めは分からなくて、内緒で様子を見にいったのよ」
「先生が?」
口に出してしまってから急に心臓がどきどきして、何かが破裂してしまう予感に身体がかたくなります。雪の中、この一本道を、先生が歩いて行ったというのでしょうか。

「やっぱり絵を描いていたわ。何枚も何枚も同じ絵よ。壁が見えなくなるくらい立てかけられているどの絵もみんなおんなじ」
「私は絵に詳しくないけど、画家さんは一枚の絵のために、何枚も下描きするのではないですか?」
「そうね。だから私もどうしていいのか分からなくなったの」
先生はじっとピアノの前に座っています。
「それでね、彼が帰ってこないのは、この木のせいじゃないかしらって」「そんなに素敵な景色だったんですか?」
「景色じゃなくて木、木の絵なのよ」
「木の絵?」
「壁に立てかけられたどの絵も、彼がその時に描いていた絵もね」
「でも木のせいなんて」
「真っすぐ立つ幹からすっと伸びた枝に、雪が滑らかに積もって、それは本当に美しかった。そしてピンときたのよ。彼は、私からこの木に心変わりしたんだって」
「そんなこと」
「そうね、びっくりしちゃうわね」

窓の向こうでまた雪が降り出しました。正確なリズムで降る雪は、積もりそうな予感がしました。

第9話 ブラウス(3)
https://editor.note.com/notes/n1e42539a09c4/edit/


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