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夏のバス

「本当に大丈夫?」
朝から何度も聞かれるうちに、フミはだんだん不安になってきます。今日は初めて一人でバスに乗って、おばあちゃんの家まで行くのです。

いつもと同じバスに乗るだけ。
心配されるほどのことではありません。お出かけする時間が近づきました。フミは青リンゴがプリントされたノースリーブのワンピースを頭からかぶります。ふと体の動きが止まります。しばらくじっとして、それから頭と腕を出しました。レース付きの靴下の左右を確かめようとした時も、ふと手が止まります。ママが一緒のおでかけではないことです。

「行ってきます」
玄関を出ると、空気がもわっと身体にはりつきます。フミは強く一歩を踏み出しました。お出かけ用の革靴がそれに固いかかとでこたえます。スニーカーでは鳴らない靴音が、ふみの背筋を伸ばして、足取りを軽くしてくれます。

大通りに出てバスの停留所に着くと、すでに3人並んでいます。スーツを着たおじさん、白いブラウスとプリーツスカートの制服を着たお姉さん、白地に赤い水玉模様のワンピースを着た、ママより年上の太った女の人です。ハンカチを何度も顔にあてて暑そうにしています。フミもその後ろに並びます。立ち止まったら一気に汗が出てきました。街路樹の葉っぱも、ビルも、車も、真上から照り付ける日差しの中でみんな溶け出す直前のアイスキャンデーみたいです。

バスの行く先を確かめなくちゃ。
バスを乗り間違えたら大変です。フミは身を乗り出して、バスが来る右方向を何度も確認します。
本当にバスは来るのかな。
暑さは時間の流れまで遅くします。もうバスは来ないとフミが本気で思い始めた時です。大通りを向いていた制服姿のお姉さんの身体が、スッと左に動きました。
来た!
真っすぐな道の奥にバスが現れました。

(駅東口行きバス)
フミはバスが停留所に止まるまでに3回、バスの行く先を確認しました。バスの扉が開くと、並んでいた人たちは、まるでひとつの生き物みたいに同時に動き出します。フミも赤い水玉のワンピースの女の人に続いて、ステップを上がって、料金を払います。冷房のよくきいたバスの中は、大きな生き物の口みたいに広がっていました。フミが左側の奥にある一人掛けの席につくと、バスはゆっくりと動き出しました。

涼しくてほっとしたからでしょうか。同じ停留所から乗った人たちは、じっとバスを待っていた時と違って、ゼリーみたいにバスの振動に揺られています。フミも一息つくと、汗で体にくっついていた青リンゴの柄のワンピースを、膝の上でふわりとさせました。窓ガラスの外は、変わらずに強い日差しが照りつけています。セミの大合唱だけが、外からかすかに聞こえました。

バスはゆっくりしたスピードで、夏の街をくぐりぬけるように進んでいきます。汗をかいたフミの背中や手足は、少しずつひんやりしてきました。心地よく揺れるバスはフミをうとうとさせますが、肌寒さと緊張で目が覚めます。

もう曲がるところに来たかもしれない。
目が覚めるたびに、フミはあわてて窓の外の景色を確かめます。でもバスは大通りを少し進んだだけ。同じ種類の木が、同じ間隔で並ぶ街路樹が変わらずに見えます。ただフミがうとうとする度に、バスの窓ガラスは厚ぼったく、景色はぼんやりしていくようでした。街路樹が水槽の水草に変わるみたいに。

フミがバスを降りるのは、大通りの交差点を左に曲がった先にある駅のロータリ―です。何度かうとうとした後、ふみはその交差点を見つけようと、窓に頭をくっつけて先の様子をうかがいました。すると視界の下を、スーっと赤いものが通り抜けました。その動きには見覚えがあります。子供の自転車くらいの大きさですが、金魚です。教室の水槽や、病院のロビーにある大きな水槽で見る金魚。赤や白、まだら模様の身体をクルッとターンさせては、長い尾ヒレを天女の羽衣のようにゆらりとさせる姿に、フミはいつも見とれていました。

赤い金魚は、街路樹の間を、白黒のまだらの金魚と泳いでいます。
スーッ、クルッ。スーッ、クルッ。
ターンする度に、上等な生地みたいな尾ひれがゆらりとします。
スーッ、クルッ。スーッ、クルッ。
フミのおしりも同じリズムで、グッと力が入ります。大通りはあまりの暑さでついに溶け始めました。
あれ?
金魚が見えなくなりました。
あっ。
今度はトラックの陰や、ビルの駐車場の出入り口、マンションの屋上から、何匹も出てきました。でこぼこと続く商店街の屋根の上を、スーッ、クルッと面白そうに泳いでいます。
きれい!
オレンジ色の金魚は、日差しの中でまばゆいばかりか、さらに光をふりまきながら泳ぎます。上の方では、青い空にきりりと黒い金魚が、ジグザグに泳いでいます。

ポヨン。
フミはおしりにやわらかいものを感じました。やわらかくて、ふくらみがあります。
ポヨーン!
今度はしなるような力強さが伝わってきて、フミの身体はバスのシートから押し出されました。見るとフミの前を、白地に赤い水玉模様の金魚が泳いでいきます。たっぷりとしたおなかを見せながら、白い尾ひれをしならせます。
え、なに?
フミは着ているワンピースが揺れたような気がしました。プールの中で、水着がズレたときみたいな感じです。思わず立ち上がると、青リンゴの柄の尾ヒレが、右から左へゆっくり動いていきました。
金魚になっちゃった!
驚いて周りを見ると、バスが交差点で大通りから、駅のロータリーに入っていくのが分かりました。バスが停留所に止まります。ドアが開いた瞬間、フミは思い切り尾びれをしならせて、勢いよく外へ飛び出しました。

「フーミーちゃーん」
木陰からフミを呼ぶ白い金魚がいます。背ビレを左右に揺らします。でも涼しいバスの中から外へ飛び出したフミはうまく泳ぎだせません。尾ひれを動かそうと体をよじった時です。フミをおおう影ができました。見上げると、青空の下に真っ白な日傘が開いています。
「ちゃんと着いてよかったわ」
目の前にいるのはおばあちゃんです。

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