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#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門「窓をめぐる物語」第9話 ブラウス(3)

年末にカフェは一週間ほどお休みになりました。私は友人と温泉旅行へ行ったり、新年会に出かけたりしていましたが、たしか天気の良い日が続いていたと思います。

年が明けてから初めてアルバイトに行く日、前日の夕方から降り始めた雪は、止むことを忘れてしまっているようでした。家を出ると昨日までのやせ細った雪景色は一変し、ずしりと、静かに力を取り戻していたのです。久しぶりにお店を開けるので、いつもより早めに家を出ましたが、カフェの入り口はすでに誰か通ったようでした。

店内は年末に先生と大掃除をした時のまま片付いています。カップなどの食器類も、後ろの棚にきちんと納められています。ただ大雪のせいかガラス窓のあたりが明るく感じて、そこで気が付きました。

ピアノのふたが開いてる。
椅子も少し後ろに引かれています。

「あ、君か。来ていたんだね」お店の扉が開くと同時に、駆け込むように常連さんが入ってきました。
「彼女、来ていないよね?」
「先生はまだのようです」
「やっぱりか」
「何か、あったんでしょうか?」
「どうやらまた山の方へ行ったらしいんだよ」
「山の方?」

口数の少ない常連さんで、何か考えごとをするようにコーヒーを飲む姿や、たまに先生と話す様子を見かけていました。先生からはとてもお世話になった工務店の方だと聞いています。それは壁一面がガラス張りのこのお店を作った時の話だと思います。でも今、常連さんは私を見て話しています。

「そうか、君は知らなかったのか」
「一体、どういうことでしょう?」
常連さんはため息をつきながらいつものカウンター席に座ります。
「これからうちの会社の者が車で迎えに来るから、そしたら探しに行ってくるがね、雪が降り始めるとこうなんだ。いや、大雪が降った後だ」
言葉の意味を、私は頭の中でつなげられません。

「誰も出歩かないそんな雪の日だったよ。一番初めに彼女がいなくなったのは。何が起きたのか全く分からなかった。たまたま車で店の前を通ったら開いているはずの店が閉まっていたもんで、どうしたのかとは思った。そうしたら、山へ行くあの道に倒れているのが見つかってね」

あの道って。

私はガラス窓から一本道を見ました。常連さんによると、先生はそれから何度となく同じことを繰り返したそうです。
「さっぱり分からんよ。どうしてそんなことをするんだか」
「アトリエ、ですか?」
常連さんの眉がわずかに動きました。
「ああ。自分からは何も言おうとしないんだがね。確かにアトリエの方へ行こうとするんだよ」

(分かるはずがない)
私は反射的に心の中で言いました。

「しかも相当降ったときに限ってだ。いくら旦那のアトリエがあるからって、なんだってわざわざそんな大雪の日に」
やはり常連さんは、先生からあの話を聞いたことがないのだと思いました。パートナーの描く絵のことについて、いえ木のことについてです。私だって先生から聞いた時、全て信じたわけではありませんし、今のこの瞬間まで忘れていたのです。

「それも薄着で出かけてしまうんだ」
「え?」
「本当に何を考えているのか分からんよ、私には。もう何度もいなくなって、その度にうちに連絡が入るようになってさ、駆け付けるといつも薄着なもんだから、私もこうして上着を持ってくようにさ」
常連さんは横の椅子に置いた暖かそうな作業着に、大きくて厚みのある手をのせました。

「一度はシャツにマフラーを巻いただけで倒れてたんだ」
「シャツ一枚ですか?」
「ああ、女の人が着る袖がふわっとした、白くて薄いシャツだよ」

(あのブラウス)

私はなぜかその時になって一枚の写真を思い出しました。子供の頃、先生の家にあったものです。ピアノのレッスンを受けていた居間に飾られていました。花束を抱えた先生とパートナーが、町のホールのピアノの前で写っています。おそらく演奏会で知り合った日なのだと思います。

先生が着ているのは白いブラウスです。腕を広げると袖がふわりと美しく広がるブラウスです。画家のパートナーが先生をモデルに描いた時のブラウスに違いありません。でも、このブラウスを着た先生をモデルに描いたという絵は、どこかに飾られていたでしょうか。

お店のドアが開いて、常連さんと同じ作業服姿の若い男の人が入ってきました。
「やっぱり足跡があるよ」
常連さんに言うと、私を見て軽く会釈しました。
「そうか、じゃ行こう」
「私も一緒に行ってもいいですか?」
「いや構わないが、大丈夫かい?」
「はい、お願いします」

ガラス窓から見えるあの真っ直ぐな道は、途中までしか車で入れません。ですがその日は、降り積もった雪のせいですぐに進めなくなりました。若い男の人を先頭に、常連さん、私の順に歩き始めました。雪に覆われた中を一歩ずつ進みます。いつもカフェの窓から眺めていた道と、今歩くこの道が、果たして同じ道なのか判断がつきません。

この町で冬になれば雪道を歩くのは当たり前です。でも私は知らない感覚の中にいました。歩きながらすべての色彩を失っていくのです。お店で毎日ふれていた美しいカップやソーサー、ピンスポットに照らされたグランドピアノ。そしてドアを開けると溢れてくるコーヒーの香り、ジャズのリズムやクラシックの旋律、空気に心地よく溶け込む食器の音。今はそのすべてを吸い込んでしまう雪と、ひと足ごとの重さしかありませんでした。

「大丈夫かい?ここまで積もるとはな」
先を行く常連さんは私の足元を気づかってくれます。私はただ怖さを感じていました。ウェーブした美しい髪、シンプルなパンプス、そしてピアノを弾く先生の姿が一気にはかなさに変わります。ふり返って確かめてみたけれど、カフェも、そしてこれから行く先も何も見えない場所にいました。

「一体、こっちに何があるっていうんだか」
「アトリエではないのですか?」
「それはそうなんだが、なぜかいつもその手前で倒れているんだよ」
「このことをパートナーの方は?」
「もちろん知ってるさ。一番初めに彼女が雪道で倒れているのが見つかった後、彼はしばらく町へ戻っていたからね。でもやっぱりこっちに戻って来るんだよ。秋までは家で仕事をして、冬になるとこの先のアトリエにこもるんだ」

「どうしてですか?」
「さっぱりわからんよ。仕事だと言われたら、はいそうですかと言うほかないさ。おかしな夫婦だよまったく」

一体どのくらい雪道を進めたのか、一本道がわずかに傾斜しはじめました。

「今のうちに早く見つけないと」
小やみになった中、常連さんは足を速めます。道の両側には、まだ細い木が不規則に生えていました。上へと伸びた枝先は、ぽん、ぽんとまあるく雪を載せています。

(ぼんぼりみたい)
ふいに先生の言葉を思い出しました。
「彼のアトリエへ向かう道の途中にね、まだ若い木が生えているところがあるの。枝の先にまるく雪を載せているんだけど、それは楽しそうでとってもリズミカルなのよ」
「音符みたいですね」
「本当ね、丸くて小さな雪の音符ね」

その時は、その話が、内緒でご主人のアトリエを見に行ったというおしゃべりに過ぎないものだと私は思っていたのです。行くのが思いのほか大変だったとか、どこか楽しそうな話しぶりにさえ感じました。

(でもそうじゃなかった)

聞き流していた先生の言葉がよみがえります。
「でもね、私にはやっぱり寒いだけの道。もうそこから違うの、きっと違う世界なのよ」

「足跡があるな。たぶんこのあたりにじゃないか」
常連さんが見つけた先生の足跡は、雪の中で木の葉のように小さくなったものでした。
「間に合うか」常連さんがつぶやきます。

あの日、先生は言いました。
「あの木を、それを描く彼を見て思ったの。彼は私と暮すよりも、この木と一緒にいたいんだって」
前を行く常連さんの大きな背中がぐっと伸びました。
「もうすぐあの建物が見えてくるあたりだ」

境目の消えた景色の中に私たちはいます。
「あれだ、だとしたら前はこのあたりに」

常連さんの背中越しに、私も山の中のアトリエをぼんやり確認します。先生の言葉がよみがえります。「彼は私よりもあの木がいいのよ。ぼんぼりを載せた小さな木は、彼が描いた子供たちじゃないかしら」

「いないか?この辺りのはずなんだ」
常連さんたちは、道を左に外れた雪の中へ入っていきます。

道の右先に現れたアトリエは、道側に面してとても大きな窓が作られていました。窓に向かってカンバスを立てる男性の姿があります。そして、道を挟んだ向かいに本当にあったのです。すっと枝を広げ、道を越え、アトリエまで包み込むように立っている木です。まるでモデルとしてポーズをとっているみたいに。いえそうではありません。画家と木は見つめ合っているのです。私もそれ以上、道を進めなくなりました。広がる枝には、雪がなだらかに、波打つように降り積もっています。とてもエレガントに力強く、美しいブラウスの袖ように。

「いたぞ」
常連さんの声がしました。2人は雪をかき分けてしゃがみ込みます。私のところからは、しぼんだブラウスと小枝のような体が見えました。


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