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「人の眼鏡👓」をかける必要はないよ。の話

もうすぐ中学生になる息子が、先日こんな話をしていました。

「Mくん(中学が一緒になる小学校に通う子。習い事が一緒)がさ、あっちの小学校はヤバい奴ばっかりだって言うんだよ。○○って言ってきたり、△△って性格だったりするって。俺、そういうのすげーイヤなんだよね。中学行きたくないな~」

まあ、もっともな話です。
息子はHSPでもあるので、激しい言葉や人の気持ちを踏みにじるような相手が、特に苦手です。

そうだね、と頷きながら、でも私は続けました。

「あのね、もっと君が大きくなってから話そうと思ったんだけどね。ちょうといい機会だし、今ならきっと分かると思うから、大事な話をするよ」と。




★世界を見ている「メガネ」の話


いい? とっても大事な話なんだ。
たぶん、こんなこと小学生で教えてもらう子は、珍しいと思う。
でも、きっと今なら分かると思う。

あのね、人ってね、目には見えない「メガネ」をかけて、世界を見ているんだよ。


どういうことかというとね。

たとえばAくんが、「Bくんって性格最悪。○○だし××だし」と言ってたとする。それは、Aくんが「そういうメガネ」をかけて、Bくんを見ているの。
でも、別な人がBくんを見たとき、「あいつ結構いいやつだよ」って言うかもしれないでしょ。

でもね、そのAくんの話を、君が聞いたとする。
それで「Bくんはイヤな奴」と思い込んだとする。
そうするとね、君は「Aくんのメガネ」をもらって掛けちゃったってことになるんだよ。
そういう「思い込み」で、Bくんを見るようになっちゃうの。
分かるかな?

「うん」

たとえばね、「人によって態度が違うヤツ」っているでしょ?

「うん、いる」

そいつは、Aくんには、嫌な態度をとるけど、Cくんには優しいかもしれない。
それって、Aくんがその子を見るメガネと、Cくんがその子を見てるメガネが違うってことだよね。

「うん」

でもさ、もしかしたら、Aくんは言葉がキツくて、その子と仲が悪いのかもしれない。Cくんは優しいから、その子も同じように優しくするだけかもしれない。そういうことって、あるでしょ?

「うん、ある」

さっき君が言ってた、Мくんの話ね。
それはね、Мくんの「メガネ」で、「Мくんの世界」を見てる話なんだよ。
それはあくまで「Мくんの世界、メガネ」であって、君の世界ではないの。
でも君がそれでМくんの話を聞いて、「そうに決まってる」と思うことは、Мくんのメガネを、自分ももらってかけたことになるんだよ。

別に私はそれもそれでいいかな、とは思うけどね。
どっちかというと、今から余計なメガネはかけずに、「実際自分が会ったときに、自分の目で見て」、それから考えればいいんじゃないかな、と思うんだよね。
どう?

「うん、そう思う。おれはおれが見て決める」


その日はそれで話は終わって、夕飯を食べました。
息子の反応はわりとあっさりしてたのですが、今すぐ彼の認識を変えようとは、私は思ってません。
心のどこかで、今の話が響いて、いつか伝わればいいや」と思っていました。

ところがです。
その後、続きがあったのです。


★息子自身が、自分で腑に落とした


次の日の夜のこと。
息子はお風呂であったまるときに、タブレットで動画を見ていることがあります。
その日はちょうど、そうしてたようでした。

お風呂から上がって、息子が言ったのです。

「今おれが観た動画さ、昨日母さんが言ってたことだった!」

え?どういうこと?と聞くと、

「思い込みで人を見て、勘違いしてたって話。やっぱり、自分の目でちゃんと見てみないと分からないんだよね」

息子は、どんな話だったかをかいつまんで教えてくれました。

その動画がコチラ。
↓↓↓

どんなお話かは、私が文章にするより、直接見ていただいたほうが面白いかと思います。

何にせよ、息子は自分で腑に落としたんですよね。

すぐに「理解する」とか「結論を出す」ことはできなかったことも、心の奥に響いていて、いずれ「あ、こういうことか!」と目の前で体験したとき、人は本当に腑に落とすことができるんだ

と改めて思いました。


先輩の言ったこと、親の言ったこと、その時はわからなくても、同じ立場になったときに覚えていて、「ああ、本当にそうだなあ」と分かるとか。

学生時代に勉強した内容、そのときは「こんなのやって人生に何の意味があるんだよ」と思ったとしても、大人になったときに「ああ、あれがあるから今、こういう会話ができるんだ」と分かるとか。

……「気づく力」があるかどうかにもかかってますが(笑)


★透明なメガネであるほど、世界は素晴らしいと感じる


私たちは生まれ育ってくる中で、どうしても「他人のメガネ」をもらってしまっています。

たとえば、「女は勉強なんてしなくていい、家事さえできれば」なんて親に言われていて、そう思い込んでいるとか。
あるいは(思い込んでいることを忘れちゃっていると)家事が苦手で、それをついつい「私なんて女として至らない」と思い込んでしまってたとか。

お前って可愛くないよな」と昔に言われたせいで、大人になった今でも、つい自分に自信がもてなくて、人の目を見て話せないとか。(←これ、私そうでした)

離婚はよくない、子どもが可哀そう」という、「誰か」の意見を真に受けて、「そうか、私の子どもは可哀そうなのかも」などと思い込んだり。
(決してそんなことないです!)


これって、ネガティブ方面だけじゃないんです。
「幸せと思い込むメガネ」もあります。

たとえば「結婚すると幸せだよ」という思い込みのメガネを誰かからもらっていたとします。間違いなく「結婚したい!」って思いますよね。
ところがどっこい。
この場合、「結婚した」のに、「思ったほど幸せじゃない」ということになりがちです。

なぜなら、自分の本当の幸せじゃなく、「誰かのメガネ」をかけて、幸せを探していたから。それはその「誰かの幸せ」であって、自分の幸せではなかったから。

こうなってくると、「なんでよ! 結婚すれば幸せになれるんじゃなかったの!? 誰のせい? 私のせい? 相手のせい!?」となってしまうんです。


ほかにも「いい子なら幸せになれる」というメガネをかけていて、気づかないまま大人になると。

「いい子」にやってきたのに、今ひとつ、幸せの実感がない。むしろ、「いい子じゃない」ほかの人のほうが、幸せに見えて、悔しくて仕方ない。

みたいなことになる場合もあります。


「メガネ」とは、言い換えれば「見えない思い込み」です。

このメガネが透明なほど、世界は透き通って見えます。

「今まで人からもらったメガネ」を、外すのはちょっと難しいかもしれません(でも断言しますが、できます)。

ただ、「これからもらうメガネ」は、「受け取らない」という選択ができるんです。

前にも話したことがあるんですが、お釈迦さまの、こんな逸話があります。

ある男が、お釈迦さまのところにきて、あらん限りの罵詈雑言をいいました。けれども、お釈迦さまは黙っています。
「勝った!」と思ったその人は、勝ち誇ったように周りとお釈迦さまを見て満足し、ようやく黙りました。
すると、お釈迦さまはこう言ったのです。

釈「家に招かれ、ご馳走が出されたとき、客がそのご馳走を食べなければ、誰のものになりますか?
男「そりゃ、その家の主人のものだろう」
釈「そうです。私はあなたの言葉を受け取りません。すると、この言葉は誰のものになるでしょうか

お釈迦さまは、「あなたのメガネを受け取らない」と伝えたわけです。

メガネは、相手のものです。
受け取らなければ、自分のものにはならないのです。


透明なメガネであればあるほど、世界は美しく見えます。
自分の人生が素晴らしいものに感じます。

あなたは、自分のメガネをかけていますか?
それとも、誰かのメガネをかけていますか?

できるだけ、メガネを透明に磨いていきたいですね😊

最後までご覧いただき、ありがとうございます😊✨

どうぞサポートのお気持ちは、ご自分へのご褒美に使ってあげてください♡