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【3分エッセイ】無毒で毒に勝った母の話
トントントントン・・・静寂のなか、響き渡る包丁の音。
早朝の台所。よもや、自分がこうして母のために、毎日朝食を用意するとは、1年前は想像すらしていなかった。
昨年夏の緊急入院。担当の医師から、「覚悟したほうがよいかもしれません」と言われながら、2週間、病と闘った母。
ようやく峠を越えても、しばらくはあの世とこの世の間をふらふらしているような様子だった。
病室を訪ねると、きまって始まるのが昔話。
死の間際、これまでの人生が走馬灯のように駆け巡るとはよく聞くけれど、母はどうやら、その走馬灯を手土産に、あの世から追い返されてきたようだ。
思い出を一つひとつ話しているうちに、完全にこの世に戻ってくるのかもしれないと、黙って耳を傾けていた。
ある日は、母の父、私にとっては祖父の話だった。
大正生まれの祖父は、町内会の会長を長年務め、外では人格者として慕われている人だった。祖父の葬儀には、1000人近くの慰問客が訪れ、東京の下町ならではのお神輿まで繰り出すような、盛大なものだった。
しかしながら、内では嫉妬深く、とても我儘な人物。
3人兄弟の長女だった母は、祖父からもっとも溺愛されて育ったという。
その溺愛ぶりは度を越していて、就職したいと言えば、床の間に飾っておきたいと猛反対され、なんとか勤めに出たものの、門限は仕事の定時である夕方の5時。会社まで迎えに来ていることも度々あったそうだ。
今で言うところの、完全なる毒親だ。
そんな父親の執着ぶりに耐えられず、父と出会った母は、半ば駆け落ち同然で家を出る。
母が祖父と和解したのは、私が生まれて3歳になったころ。何度も門前払いをくらった末のことだった。
辛かったけれど、今はもう、おとうさんを恨んではいない・・・
話の最後に、母はそう言った。
束縛されてきたせいか、母は私を自由・放任主義で育てた。
何かをやりたいと言えば、すべてYES。むしろ、私がいろいろな世界に出向いていくことを楽しんですらいた。
オーストラリアに遊学中も、なんだかんだと理由をつけては遊びに来ていたし、海外旅行や推し活の遠征で同伴者がいないときは、誘ってみると嬉々としてついてきた。
適齢期になって、そして適齢期を過ぎても、仕事だ、旅行だ、推し活だと年中飛び回っている娘に、一度たりとも、「もうそろそろ落ち着いたら?」という言葉を発しなかった母。
毒親の反対語があるとすれば、無毒親だろうか。
トントントントン・・・母のために朝食を作りながら、こんな考えがふと浮かんだ。
これは、母の作戦だったのではないだろうか。
毒を持って、娘を手元に縛り付けておこうとした祖父。それに対して、無毒で、結局は娘を手元に置いている母。
1か月半の入院から、自宅に戻って半年。病床でよく昔話をしていたよねと話すけれど、母はまったく覚えていないと言う。
どうやら、すっかりこの世に戻ってきたようだ。