「信長の手紙 ―珠玉の60通大公開―」から思いついたことまとめ

永青文庫という肥後細川家にまつわる文書館?がある。
肥後細川家というのは要は細川忠興の家系だと言っていい。そこの企画展でたまたま信長の文書にまつわる展示をやっていたということで、見に行った(やっぱり、自分と同世代ぐらいの人はなかなかいないけど)。
これを紹介してくれた?のは石田三成-ZIBU-様(@zibumitunari)なのでこの場を借りて感謝の意を表したいと思う。


出自がわからない?

文書の中に(といっても頼久は崩し字も戦国期の言い回しもいまいちわからないので訳ばっか見てた)は、時折興味深い話が入ってくるときがある。撮影禁止だったのでうろ覚えだけど許してください。

江戸時代になってから、江戸幕府は諸大名の系譜を作る業務を始めた。当時の当主(忠利だったっけ?)も特に室町幕府の管領というわけでもない細川家の由来を探るべく、いろいろと家伝の文書を集めていたらしい。

それを受けて忠興は「信長や秀吉の時代は自分たち個人個人を見てもらえてたので、出自がどうとか考えたこともなかった」みたいな書状を書いている。
信長や秀吉の人事を抜擢人事とみなす傾向には反対論があるらしい。が、当事者たちとしては「家柄に関係なく自分の実力を見てもらってる」というイメージがあったのかもな、と思った。
無理やりこの2つをくっつけるとしたら、信長本人としては身内重視で組織づくりをしたかった。しかし、急な勢力拡大と(原田直政・坂井政尚・森可成ら)戦死するメンバーがちょこちょこ出てくるせいで、人事の入れ替えが頻繁に行われており、結果として武勲を立てられる奴が上に行くシステムになっていたのだろう。あと、関所の役人を殺害した森長可や、スタンドプレーを働いた秀吉などであっても結果を出せば許しちゃうという信長の甘さ?もこの構造を後押ししたのかもしれない。

信長は「弱い権力者」か?

展示内では、信長にとって光秀や細川藤孝がいかに畿内統治において重要であったかがわかるようになっている。いまだ室町幕府+@の影響力が残っている畿内において、在地領主を手なずけたり、石高制をベースにした軍役制に組み込んでいったのは彼らの尽力によるものだ、というのだ。それだけなら頼久も否定はしない、というかむしろ彼らの尽力は肯定する(むろん、足利義昭に義理立てしなかったことは別問題だよ)。

さらには、現地で領地のトラブルが生じた際、直属であるはずの在地領主が(織田家ではなく光秀や藤孝主導でやった検地の結果)石高が余ってしまった。その際、余った分は光秀らの知行に組み込まれた。
展示では「信長は旧態依然とした領国制からの脱却や軍役制度の確立において、光秀らのサポートなしではできなかった、だから直属の在地領主の取り分を削るような真似をしたのだ」というような趣旨の論理展開が行われていた。

あたかも、こと領国支配という点において、信長は「弱い権力者」であり、軍団長の管轄範囲においては意見を通すことができなかったかのような主張だと感じる。

だが、この論を頼久は十分に信じられなかった。直臣とはいえ、最近M&Aされたばかりの在地領主と、足利義昭打倒で共同戦線を張った光秀や藤孝なら、優先されるべきはこれまで自分と一緒に戦ってくれた側、大義名分をかなぐり捨てても自分を優先してくれた側を優先するのは道理だ。これは、信長による光秀らへの依存ではなく信頼のなせる産物である、という意見も十分に通る余地があるはず。

実際問題として、光秀と同じく「軍団長」と呼称される一大勢力を保持していた佐久間信盛は、半ばとってつけたような詰問文を送られた挙句、追放の憂き目にあっている。無論、光秀の正当性は織田家のみに立脚していたわけではないだろうけど、あたかも軍団長が信長から全権を委任されていて、領国を事実上自分の私有物かのように扱えたような言い方はちょっと言い過ぎじゃないのかなあ、と頼久は思うわけだ。

頼久個人の意見ではあるけど、信長は望めば光秀らを粛正すること自体はできたと思う(松永久秀や荒木村重同様長期の戦乱になったかもだけど)。でも、あえてしなかったのは光秀らの存在に価値を感じていたからだと思う。
信長というのは(頼久の知る限りでは)合理主義者-というか実用主義者だ。天皇でも将軍でも伝統的宗教でも使えるなら使う。そういう人だから、光秀や藤孝には非常に価値・信頼をおいていたし、領地においても高い裁量権を与えたのではないだろうか。
で、彼らに高い裁量権を与えることで何がしたかったのかというと、軍事に注力することではないかな?と思っている。正直、これに何か根拠があるかといわれると出せないんだけどね。

もし「本能寺」がなければ?

信長の下での軍役体制は何石につき何人、という明白なルールが存在したわけではないようで、その分のしわ寄せが光秀や藤孝ら家臣たちにのせられたり、とりあえず大兵力を動員できた家臣を称揚したりしていたらしい(うろ覚え)
とはいえ武士というものは功績をあげてナンボである以上、軍役以上に見栄を張ってしまう問題は後発の豊臣政権なんかでもあったようではあるけど。

また、先述の通りいわゆる軍団長と呼ばれる人たちは任地において検地をおこない、ある程度領国として掌握することに成功していたわけだ。一方で信長の直轄領でそのような体制は不十分だったと思われ、この辺の直轄領と軍団長任地のズレを信長はどう解消するつもりだったのかはわからない。でも頼久はわからないならわからないなりに自分の納得のいく答えを出す主義なのでちょっと考えてみたい。

信長からの依存とみるか信頼とみるかはともかく、石高をもとに任地を領国化しつつある軍団長たちは、放置すれば半済令を利用して独立性を高くしていった室町時代の守護の再来になりかねない。そうなると、伝統ある源氏や平氏としての正当性も十分にない織田家が持続可能な体制を作っていくことは難しくなる。

信長の本心は不明だが、あるいは領国を再編するのは(家督もすでに譲っている)信忠らの仕事だ、と思っていたのかもしれない。武田勝頼を滅ぼしたあたりで、信忠に対し「天下の儀も御与奪なさるべき」というような言葉を信長は言っていたらしいが、その中には力をつけすぎた軍団長たちとの対峙も含まれていたのではないだろうか。
といっても武力で討伐するわけではない。光秀・勝家らは一説によると信長より年上だ。秀吉らも信忠より後に死ぬとは考えにくい(絶対ではないが)。こういった彼らの世代交代の隙をつく形で、無理のない範囲で彼らの勢力圏を削っていく。そうすれば軍団長を引き継いだ新世代の面々-例えば明智光秀の息子光慶とか、柴田勝家の養子勝政とか-は織田に反乱したくてもできないだろう。与力の面々も改めて独立大名にしてしまえばモアベターだ。ちょうど、秀吉が勢力を大きくしすぎた蒲生や丹羽に対してとった手を活用することになる。
例えば、細川忠興の「忠」の字は信忠に由来するという。ならば、信忠政権の下で明智が抜けた後の畿内統治に細川忠興が参画することはあり得ない話ではないのではないだろうか。

無論このやり方も欠点がないわけではない。変に頑張りすぎてしまって、領土面で悪目立ちすると削られることが分かれば、本気を出すのがばからしくなってしまうだろう。豊臣政権における武功派のように、潜在的な不満分子が生まれる余地もある。
その分を是正するための仕掛けとして、もしかしたら茶の湯が使われたのかもしれない(滝川一益が関東への赴任より茶器を望んだエピソードからすると、意識改革は信長時代からすでにスタートしているといえなくもない)。茶の湯の特権・名誉を通じて、家臣団のヒエラルキーを構築するということだ。

最も、実際の歴史ではそうはいかなかった。明智光秀は信長を裏切り、殺害するに至ったからだ。

本能寺への道?

展示の中には、明智光秀が本能寺の変後細川藤孝にあてたという手紙があった。その中には、「天下が落ち着いたら細川忠興やうちの息子にあとは任せたい、今回の謀反も彼らを取り立てるため」などの言い回しがある。展示内では親密な藤孝に嘘をついてもバレるから光秀の本音だろう、としていたが自分もそう思う。光秀は恐らく本能寺の変時点で60代だったそうなので、息子光慶の末路が心配になることは十分にあり得る(忠興は順当に出世しそうな気もするが)。この時点で織田家中で地位や権力を世襲できたケースは森可成ぐらいしかない。つまり地位の継承に関してはっきりとしたルールが確立していない中で発生したのが本能寺の変だ、ということもできるだろう。

明智光慶をどうするつもりだったのかは信忠も信長も言及していないが、光秀個人のことを買っていたのは状況証拠で何となくわかると思う。
だが、同時に光秀本人が何を求めているか、は信長に伝わっていなかったのではないか。有名な「越前国掟」でも離れていても自分への敬意を忘れないように言っているし、佐久間信盛への折檻状でも自分を軽んじたことを批判している信長のことだ。家臣の欲求をくみ取るということをしたくないと思っていたのかもしれない。

だが同時に、こうも思えてくる。秀吉の浮気に困っていると訴え出た妻ねねに対し、「先日は贈り物ありがとう。お前ほどの嫁をあのはげねずみが見つけられるはずもないのだから、堂々としていればいい。ついでにこの手紙は秀吉に見せろ」などと配慮を見せている信長のことだ。移動中、寝ていた民の失礼さを責めることなく通り過ぎた話もある。人に配慮できない人物とは思えない。
家康の供応が終わった後にでも、「息子のことはうちでちゃんと面倒見るから、これからも頑張ってな」と一言いうぐらいのことはできたんじゃないか、と思わずにはいられない。

なんでできなかったのかはよくわからない。自分なりの考えとしては、信長という人物は相手が能力があると思ったらとことん期待してしまうタイプなのではないか、と思っている。
ねねや民(もしかしたら元奴隷の弥助も含まれるかもしれないが)は能力がないからあまり期待しない。その分だけ「自分から歩み寄らなきゃ」という思いから配慮できるようになる。
一方、光秀以外にも安土城の侍女たちを殺したり父信秀の病気を治せなかった僧侶たちには当たりがきつかったりしたという。そういう自分から見込んでいった人たちに対しては「俺が見込んだ有能な人間なんだからこれぐらいわかってくれてもいいじゃないか」というある種の期待(甘え?)ができる。だが信長が信頼したからといって、部下たちが期待にいつまでも答えられるとは限らない。その時、期待が反転して信長の厳しい面が姿を見せるのかもしれない。

信長が日本統一のために必要だったのは、「自分と部下たちの間でもしかしたら意思疎通がうまくいっていないのかも」という気づきだった、かもしれない。

字からわかるかもしれないこと

ここからは余談。書状というのは祐筆に書いてもらうパターンもあるが、直筆の書状もいくつか存在していた。私は基本字がクッソ汚いうえに崩し字が読めないので、書状の字がどうこう、という論評は基本出来ない。なので、自分の並んでた前にいた人とかの受け売りがある程度入っていることをお許し願いたい。

信長の直筆→信貴山城攻め(松永久秀討伐)における細川忠興の武勲を褒めたもの。線が太い。豪快な性格といわれてもさもありなん、ってな感じ。

光秀の直筆→本能寺の変直後、細川藤孝に送った書状で、「いったんはあなたが味方になってくれないと知って怒ったけど改めて考えなおしたらもっともだった」という趣旨から始まる、味方への勧誘を誘う前述の内容につながる。前の人は几帳面だとか言ってたけど、正直文字の間隔がまるで印刷したみたいに均等になっていた。文中の怒りの表現が正しければ、相当冷静になれるよう努力したに違いない。

三成の直筆→石田三成-ZIBU-様(@zibumitunari)に紹介されてた、要は自分が見に行こうと思ってた元凶。お礼状+投資へのお誘いともいわれる。はじめのうちは大きめに書いていた字があとになって小さくなっていくのが面白い。三成という人物の生き方に計画性のなさは感じないのだが、もしかしたら実はそうだったのだろうか。
スペースが足りないとわかったら紙を継ぎ足しても問題はなさそうだが、豊臣政権の奉行として紙の無駄使いをするのが嫌だったのかなあ、などと思ったりした。



改めて、本文は解説がないと全く分からなかった。けれども、歴史について改めていろいろと考えるきっかけになるような展示だったように思う。
こんな記事書くなら図録買っとけよ、と思わずにはいられないけど近いうちに引っ越すとき面倒だと思って買わなかったのだ。だってあれホント値段するし分厚いんだもん……



いいなと思ったら応援しよう!