宝物みたいな体験がほしい
いまの暮らしも自由な暮らしだと思う。
小さいながらもお気に入りのアパートに住み
コーヒーを淹れて飲む。
首都圏だから車がなくても困らない。
気候が良く、晴れた日が多い。
買いたいものは何でも売っているし、病院も選べるほどある。
ただ時々、ううん、いつもかな。
同じ会社(同じ給与水準)で実家暮らしの子が気軽に旅行に行ったり
気軽に家族でアウトドアに行ったりしているのが羨ましくなる。
でも一人暮らしを選んだのは自分じゃないか。
実家暮らしだっていまとは違う大変さがあるはず。
だからモヤモヤをくすぶらせる思考も嫌なんだ。
ほしいのは経済的豊かさ?
それがあったら私は何がしたいんだろうか。
もっと具体的に考えてみよう。
そうしたら叶えられることだってあるんじゃない?と
今朝アイロンがけをしながら思った。
羨ましさの正体は宝物がほしいという気持ちだった
コーヒーを飲むのも幸せだ。
インドカレー屋さんでザグカリーと大きいナンを食べるのも幸せだ。
なにもしないで一人で落ち着いて過ごせるのもいい。
ただ、幸せの余韻が短いんだと思う。
対して、幸せの余韻が長い体験ってあるんだよね。
何年経ったとしても
好きなときに頭の引き出しから取り出して
ありがとうって思ったり
元気をもらえたりする経験がある。
たとえば、
福祉施設でのボランティアとか
バイトで貯めた給料の半分を使って
資格のスクーリングに通ったこと
もう半分を使って福岡旅行に行ったこととか。
(ヘッダー画像は福岡•能古島のコスモス畑)
日照りの日も雪の日も河原の道を散歩して心の洗濯をしたことや
好きなアーティストのコンサートに行ってみたこととか。
それは色あせない宝物のような経験だ。
解像度は落ちたとしても、逆に彩度が上がっていく気さえする。
そういう宝物たちが私の中にあるから生きていける。
宝物を増やしたい。
普段心でくすぶる羨ましさの正体はそれだと確信した。
また宝物になりそうなことしたい!
宝物になる条件
なにが幸せの余韻の長さに関係するのだろう。
それがわかれば、漠然と豊かさを求めるのではなく
手の届くところで宝物を見つけられる気がする。
先に書いた私の中の大切な経験について振り返ると
経済的または心理的に思い切ったことをした
あるいは時間をかけて取り組んだ
ということがいえると思う。
後になっても何度でも思い出せるのは
自分なりに頑張ったことだからなのだろう。
それだったら、今の私でもできそうな気がする。
さて、宝物を増やすために何をしよう。
東海道線で静岡まで行ってみるのもいいなあ。
構想を練るところから旅は始まるから楽しい。
もちろん、やる前から思い出にしようとするのではなく
その時だけの幸せを五感で味わうつもりだ。