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【時事】北朝鮮拉致問題 情報整理
先に申し上げておきますが、不確定要素を含むまとめになります。事実関係が明確ではないトピックもある程度含まれると思うのですよ。そのくらい、この問題は「把握が追いつかない」ものなので。また、歴史も長いですし、事象も被害も多岐に渡りすぎていて、全貌がつかみにくい。全てを網羅するサイトなんてのはないです。下記の私のまとめ以外もシンポジウムや他国との会談、国連決議など多数のトピックがあります。詳細はこの年表参照。
目的は「救う会は救う会の範囲の記事、政府は政府の範囲の記事、各新聞社やメディアは自社の範囲の記事」で相互補完が難しいので「横断して情報を集積出来たら」です。勿論、公式の情報の集積としては「政府拉致問題対策サイト」や「救う会公式サイト」に膨大な資料があります。が、例えば政府拉致問題対策サイトは「有田芳生の写真問題」なんてのは掲載されていません。田原総一朗の問題発言や裁判なんてのも掲載されていません。一方、新聞社や雑誌の単発記事では「総括」なんてのはなかなか書かれない。なるだけ「範囲を絞らない」でいきます。浅く広くでもいいので、そういう情報に行くためのハブ的な役割を担えたらなぁ、とも思っています。
あとは「自分の知識や情報の整理」ですね。なるべく全体をつかみたい、なるべく詳細を把握したい。そして「誰かに伝えるならちゃんと伝えたい」です。
個人的に私が政府に望むプライオリティ最上位は「憲法改正」と「拉致問題の解決」です。被害者やご家族がいるお話なので、間違いがあるのはかなりよろしくないので、ご指摘は大歓迎。よろしくお願い申し上げます。(この分量だとおそらく出てくると思う…誤字脱字、日付やリンク間違いとか…)
01. 北朝鮮拉致問題とは(概要)
北朝鮮はこれまでに、多くの日本人をその意思に反して北朝鮮に連れ去りました。目的は「工作員の育成」のためでしょう。北朝鮮は、長年日本人拉致を否定していましたが、2002年(平成14年)9月、金正日国防委員長(当時)が小泉総理(当時)との会談て、初めて日本人拉致を認め、謝罪。しかし、拉致された日本人のうち、日本に帰国できたのは5名にとどまっています。5名以外の拉致被害者についても、政府は、その速やかな帰国を、北朝鮮に対して強く要求しています。
北朝鮮は「拉致被害者のうち生存している者は全て日本に帰国させた、残りの拉致被害者は死亡、または入境せず」としています。拉致問題は「解決」したという立場です。が、北朝鮮が「死亡」と説明する根拠は極めて不自然で、全く納得のいくものではありません。
帰国できない人がいる理由として「拉致被害者が日本に帰国すると、スパイ活動など不都合なことが明らかになるため」と考えられています。例えば、金賢姫北朝鮮元工作員は、1987年11月、日本人になりすまして韓国の航空機を爆破しました。金賢姫元工作員は、拉致被害者の田口八重子さんから日本語の教育を受けたと証言しています。しかし、北朝鮮はこの事件への関与をいまだ認めておらず、事実が明らかになることを恐れて田口さんを帰国させていないと言われています。
02. 目的と拉致方法
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やはり基本的には「工作員養成」がメインですかね。工作員養成はいろんな国がやっているとは思いますが、他国の人間を拉致する手法がえげつないですね。自国内でやらないのがいかにも北朝鮮というか…
暗号化した文章を復元する手法としては、日向事件の工作員の自供で下記リンクのような方法が取られたようです。
03. 沿革・歴史
これは戦後すぐから今に至るまで、変遷し続けているので、なかなかまとめるのが困難なのですが(当然網羅は出来ないでしょう)わかる範囲で。なお、拉致に関係しない情勢も書かないと時系列の把握が難しいので、長くなります。これ、深堀りすると朝鮮戦争も掘り下げる必要がありますが、まあ、そこまで書くと終わらないですし、
まあ、読み飛ばせる箇所は読み飛ばして頂いて構いません。
※敬称は略している箇所があります。また、敬称や役職は当時のものである箇所があります。(例:安倍総理など)
※日付の詳細が不明な場合はXX日と表記しております。
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03-01. 1946-1960
起点はこの年代です。日本での被害より「韓国内」での被害が大きいかな。北朝鮮は着々とこの忌々しいプロジェクトを進行させていきます。
1946年07月31日 金日成の韓国人拉致指令
金日成は「南朝鮮からインテリを連れてくることについて」という教示を出しました。
「同志たちも知っているように、数日前におこなわれた北朝鮮臨時人民委員会常務委員会において、南朝鮮のインテリを連れてくるための措置を取るようにしました。<略>米軍政と南朝鮮反動派の警戒が厳しい条件下で、本人は陸路で38度線を越えてきても、家族は船を利用して安全に来れるようにするのがいいでしょう。該当機関に指示して、南朝鮮から来るインテリとその家族の道案内を、きちんとする対策をとるようにしましょう。私は同志たちが南朝鮮に行き、しっかりと自覚して慎重に行動し、与えられた任務を立派に遂行して、無事に戻ることを願っています」出典『金日成全集』第4巻
1948年09月09日 朝鮮民主主義人民共和国建国
抗日パルチザン出身の金日成(キム・イルソン)が初代首相に
1950年06月25日 朝鮮戦争勃発
北朝鮮と韓国の間に朝鮮戦争が勃発しました。
1950年07月17日 朝鮮戦争中の50万人移送計画
北朝鮮軍事委員会第18号決定書という文書で書かれています。この事は九州大学のリポリトジとして資料があったので抜粋。
金日成政権は南侵後、南で青年たちを徴集し人民軍兵士とする一方、知識人・技術者・戦前の対日協力者を北に連行した。そればかりでなく、上記決定書から、同政権がソウルの住民多数を無差別に北に連行する計画を立てていたことが判明する。これは一石二鳥の方策―ソウルの食糧不足解消と北の労働力不足補填―であったといえよう。同時に、反対分子の除去策でもあった。
これがターニングポイントなのかもですね。
1953年07月27日 朝鮮戦争休戦協定調印
1950年に国連軍が介入してソウル西方の仁川に上陸、戦況が逆転。形勢が不利になった北朝鮮も、ここで一旦戦闘停止となります。この日に朝鮮戦争休戦協定調印(北朝鮮、中国、国連が署名)です。ただ、終戦ではなく休戦である事にはご注意。
1958年04月06日 金日成「偵察兵教示」を提示
金日成は対南工作員の基本要件を10項目にまとめた「偵察兵教示」を提示。この偵察兵教示は、現在でも対南工作員の指針とされています。(※01)
03-02. 1961-1970
徐々に不穏な空気が広がり、日本でも被害が出始めるのがこの年代です。ただ、惜しむらくは情報があまりに不足して「実態がつかめないまま」過ぎていった時代でもあります。
1963年05月11日 拉致事件:寺越事件(清丸事件)
寺越昭二氏、外雄氏、武志氏の3人は昭二所有小型漁船「清丸」で能登半島沖へメバル漁に出たまま行方不明に。清丸は11日の午後1時ころに高浜漁港を出港し、そこまでは周囲からも確認されていますが、夜遅くには高浜港に帰港する予定がその日は帰らず、翌5月12日の朝、高浜港の沖合い7キロメートルの海上を漁船だけが漂流しているところを発見されました。(※02)
これは北朝鮮が関与していることが後に判明(後述)します。
1969年11月XX日 金日成、万景峰号での拉致教示
金日成が3号庁舎(労働党工作機関)拡大幹部会議で在日朝鮮人帰国事業と万景峰号を利用した対日工作に関して次のような教示を下しました。
「南朝鮮(韓国)に故郷のある在日同胞が、われわれ共和国の胸に帰国しようというその態度だけでも政治的に大きな成果である。しかしわれわれはこの事業を長く続けなければならない。そうしてこそわれわれは万景峰号で新潟港と往復できるのだ。万景峰号は帰国同胞の事業だけでなく南朝鮮革命と祖国統一を推進する事業を展開しなければならない。だから新潟に停泊している間に同志たちは革命に有益なことを探して行うべきだ。例えば、南朝鮮革命に必要な情報の入手や、必要なら日本人を包摂工作し拉致工作もすることもできるのだ。革命家はいつでもどこでも時と場所にかかわらず革命に役に立つことのできる気質が必要だ。そうしてこそ南朝鮮革命の決定的時期を主導的に早めることができる」
1969年12月11日 北朝鮮工作員大韓航空機をハイジャック
北朝鮮工作員の趙昶煕が大韓航空機をハイジャクして平壌に着陸。これは日本がターゲットではないのですが、参考までに。
金浦国際空港行き大韓航空YS-11機は江陵飛行場を離陸して10分後に北朝鮮工作員によってハイジャックされ、目的地から260km以上離れた咸興市近くの宣徳飛行場に強制着陸しました。旅客機に乗っていたのは乗客46人と乗務員4人、北朝鮮工作員趙昶熙など。2ヶ月後の1970年2月14日、拉致被害者50人のうち39人が板門店近くの自由の橋を渡って韓国に帰還しました。しかし乗客7人と乗務員4人、そして航空機自体はまだ行方不明のまま。(※03)
1970年03月30日 よど号ハイジャック事件
これは北朝鮮によるものではないのですが、象徴的な事件なので。
羽田を飛び立った日本航空のよど号が赤軍派に乗っ取られた。よど号は福岡に着陸して婦人や子供ら23人を降ろした後、100人余を乗せて飛び立ち、北朝鮮へ行くと見せかけて韓国の金浦空港に着陸した。犯人グループとの交渉の間、乗客は3日間、機内に閉じ込められたが、山村運輸政務次官が身代わりの人質になり、80時間ぶりに解放された。その後、よど号は犯人グループを乗せて北朝鮮に着陸し、山村次官と3人の乗員は無事日本に帰った。
後述の有本恵子拉致事件の実行犯の八尾恵はよど号の柴田泰弘の妻。日本人拉致に関して「北朝鮮側に加担する」メンバーでもあります。
なお、この犯人たちは今でものうのうと暮らしています。更新は停止されていますが、X(当時はtwitter)にアカウントもありました。
1970年08月08日 拉致事件:加藤久美子
妹と一緒に家を出て徒歩10分程離れた旧西鉄路面電車の大倉電停で別れたのを最後に消息を絶つ。元北朝鮮工作員である安明進が、「'89~'90年、金正日政治軍事大学で横田めぐみさんらと一緒にいた女性に似ている」との証言がある。(※04)
03-03. 1971-1980
この項目が一番「拉致が常態化していた時代」ですね。ここもなるべく丁寧に紐解いてまいりましょう。被害の数がどんどん増えていく恐ろしい時代。
1973年07月07日 拉致事件:古川了子
彼女は午前中に美容院へ行き、午後から母親と浴衣を買いに行く予定をしていました。朝早く家を出て、美容院に「今日の美容院はキャンセルしたい。出かけるところができた。母親にも浴衣を買いに行けなくなったと伝えて下さい」と言いました。それから音信不通に。(※05)
1973年12月XX日 拉致事件:渡辺秀子2児拉致事件
東京都目黒区のマンションにて夫の在日朝鮮人工作員・高大基が突然失踪。夫が工作員であることを知らずに、その行方を追って秀子は子供2人を連れ、東京都品川区のユニバース・トレーディング社の高の勤務先周辺を探し歩いていましたた。(同社は表向きは貿易会社だが、北朝鮮が工作活動を行うための会社)
工作組織は工作活動が露見しないよう、親子3人を誘い出し上記マンションに監禁、秀子氏を殺害(遺体は見つかっておらず)、子供2人を北朝鮮へ連れ去ったと見られます。平成15年1月30日、殺人と国外移送目的誘拐の疑いで、氏名不祥の数人を容疑者とする告訴状を警視庁に提出。(※06)
1976年02月07日 拉致事件:藤田進
新宿区の警備員のアルバイトに出かけると自宅に言い残し、そのまま帰らず行方不明。新宿区内の警備会社すべてに電話で問い合わせたが該当者はいなかったようです。(※08)彼については在日朝鮮人の金萬有が経営する東京都足立区の西新井病院で監禁されたという証言もあります。(※09)
1976年07月24日 拉致事件:福留貴美子
友人に「モンゴルに行く」と言い残し、羽田空港を飛び立った後に消息を絶ちました。(※10)その後北朝鮮に入り、よど号ハイジャック犯の岡本と結婚したことが判明しています。
1977年09月19日 拉致事件:久米裕(宇出津事件)
工作員・金世鎬(キム・セホ)が、かねてから知り合いであった東京都の久米裕氏を石川県の宇出津海岸に連れ出し、別の北朝鮮工作員に引き渡した後、現場付近で石川県警察によって検挙されました。警察では、乱数表や暗号表など、スパイ活動を裏付ける資料を押収。拉致の経緯、動機、状況などに関する具体的で詳細な供述を得ており、これらに基づき、必要な捜査を行った結果、北朝鮮による拉致容疑事案と判断しています。(※11)
1977年10月21日 拉致事件:松本京子
自宅近くの編み物教室に行くと自宅を出たまま行方不明。失踪時は普段着で、現金は所持していなかったそうです。この日の夜、京子氏の自宅から約200m離れた家の人が、裏庭で京子氏と見知らぬ男が会話をしているのを目撃してい ます。男は2人で、1人が京子氏と会話をし、もう一人は見張りをしているようで、目撃者が「何をしている?」と男に声をかけると、1人が殴りかかり、額に怪我を負わせ、海岸の方向へ逃げて います。(※12)
1977年11月15日 拉致事件:横田めぐみ
拉致問題でもっとも有名な「横田めぐみ拉致事件」がこの日です。
バトミントン部の練習を終えて帰ってくるはずの彼女は、いつもの時間になっても帰ってきませんでした。家族は、必死で彼女を探しました。警察も、
誘拐や事故、家出、自殺などあらゆることを想定して捜査を進めましたが、目撃者も遺留品さえも見つかりませんでした。(※13)
失踪当日のお話を横田早紀江氏が語っておられます。
1978年06月06日 拉致事件:田中実
勤務先の神戸市の中華料理店「来大」の店主である韓龍大に騙されてウィーンに行き、そこから北朝鮮に拉致されました。この件は、韓龍大と同じ工作組織「洛東江」にいた張龍雲氏(故人)が明らかにしました。日本政府は平成17(2005)年4月27日、拉致被害者として認定。(※14)
1978年06月29日 拉致事件:田口八重子(李恩恵事件)
宮崎の青島海岸から北朝鮮工作員に連行されました。2年後に同じ青島海岸から拉致された原敕晁と、北朝鮮で1984年10月に結婚。(※15)あちらでは「李恩恵」という名前で生活されていたようです(※16)
1978年07月07日 拉致事件:地村保志・富貴恵
「二人でデートに行く」と言って出かけて以来、失踪。2002年10月帰国されました。(※17)連れ去られる船の中で辛光洙容疑者から「大丈夫か」と声をかけられたという話もあります。(※18)
朝日新聞にお二人の手記が掲載されていますので、是非ご覧ください。
1978年07月31日 拉致事件:蓮池薫・祐木子
「たばこの火を貸してください」と声をかけられたカップルが、柏崎市の海岸で行方がわからなくなりました。19時頃、2人が歩いているのを近所の人が目撃したのが最後でした。この時期はカップルの拉致事件が相次いでおり、北朝鮮の犯行が疑われていましたが、政府が北朝鮮による拉致として言及したのは、10年後。(※19)
横田めぐみ氏にも触れているインタビューがこちら。
1878年08月12日 拉致事件:曽我ひとみ・ミヨシ
曽我ひとみ氏・母さんのミヨシ氏は、買い物に行き、その帰り道4人組(男
3人・女1人)に後ろから襲われ、担がれて子船に連れていかれました。(※20)
母親の曽我ミヨシ氏は安否未確認。
NHKのインタビューも掲載しておきます。
1978年08月12日 拉致事件:市川修一・増元るみ子
市川修一氏と増元るみ子氏は、2人で、夕日を見に出かけた鹿児島県日置市の海岸から北朝鮮に拉致されました。(※21)
1980年01月07日 産経新聞朝刊一面で拉致事件が取り上げられる
産経新聞が北朝鮮による日本人拉致事件を国内で初めて報じました。報道したのは社会部記者の阿部雅美氏。(※22)
(彼は1997年2月、横田めぐみ拉致事件もスクープ、新聞協会賞受賞)
1980年05月XX日 拉致事件:石岡亨・松木薰
2名とも欧州滞在中、スペインのマドリードにて失踪されました。安否未確認です。北朝鮮は石岡氏は「ガス事故で死亡」、松木氏は「交通事故で死亡」と主張しています。(※23)
1980年06月XX日 拉致事件:原敕晁(辛光洙事件)
大阪府の原敕晁を宮崎県の青島海岸に連れ出して工作船で北朝鮮に拉致。その後、辛光洙(シン・グァンス)は拉致された彼に成り替わって同人名義の日本旅券を不正に取得の上、数回にわたって海外に渡航、海外拠点の設置、対韓国工作等の活動を行っていた事件です。(※24)
(辛光洙については後述)
03-04. 1981-1990
日本でようやくこの問題が認識されて、問題視され始めるのはこの時期かなと思います。ただ、対策が展開されるにはもう少し時間を要します。
1981年07月24日 日向事件
宮崎県警察により北朝鮮の工作員が検挙、摘発された事件です。北朝鮮工作員の斉藤幸雄こと黄成国は戦前に徴用工として滞日、1980年に日本に密入国したのち、指揮下の映画監督で帰化した在日朝鮮人の清本隆男に韓国知識人への接近やモスクワ、ポルトガル領マカオでの工作資金授受をさせていました。(※25)
1983年07月XX日 拉致事件:有本恵子
神戸市外国語大学の学生でした。欧州にて失踪、安否は未確認。拉致の実行犯はよど号ハイジャック事件の柴田泰弘の妻となった八尾恵。(※26)
(北朝鮮は「ガス事故で死亡」と主張しています)
1985年XX月XX日 辛光洙、韓国内で逮捕される
辛光洙(シン・グァンス)は拉致問題工作員のトピックではキーパーソンです。原敕晁氏は1980年、辛光洙容疑者に宮崎県の海岸まで誘い出され北朝鮮に拉致されています。その後、辛光洙容疑者は原氏になりすましてパスポートを取得(背乗り)、日本や韓国で工作活動に従事していました。
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辛光洙容疑者は韓国滞在中に逮捕され、一旦は死刑判決が言い渡されましたが、無期懲役に減刑されました。その後、辛光洙容疑者は1999年に韓国大統領による恩赦により釈放、2000年には北朝鮮に強制送還されています。送還後、北朝鮮は辛光洙容疑者を、韓国で獄中にいる間も金正日総書記への忠誠心を失わなかった「非転向長期囚」として英雄扱いし、記念切手も発行。
1987年11月29日 金賢姫、大韓航空機爆破事件
1981年、韓国のソウルでの1988年オリンピック開催が決定。この事件は、北朝鮮と韓国を「北朝鮮主導のもと統一すること」が目標であった北朝鮮が、韓国が経済的に発展するのを妨害するために行いました。1987年、五輪開催のおよそ1年前、秘密施設に金賢姫は呼ばれ韓国の飛行機を落とす作戦を告げられました。(金賢姫は18歳で秘密工作員に任命)ターゲットの飛行機は11月28日。イラク・バグダッドからUAE・アブダビを経由して韓国・ソウルへ向かう大韓航空858便。金勝一工作員とともに蜂谷真一と蜂谷真由美の日本人親子に偽装し犯行を行うことになりました。
飛行機は海域上空で爆破、乗員・乗客115人全員死亡。金正一は自殺を図り死亡、金賢姫はバーレーンに身柄を取り押さえられました。
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1988年03月26日 国会で初めて拉致問題が取り上げられる
拉致事件を国会で最初にとりあげて、北朝鮮による犯行の疑いがあると認めさせたのは、1988年3月26日、参議院予算委員会で、日本共産党の橋本敦議員の質疑でした。
当時国家公安委員長だった梶山静六氏は、これを受けて「昭和53(1978)年以来の一連のアベック行方不明事犯、恐らくは北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚でございます」と答弁しています。
1988年09月06日 石岡亨氏実家にエアメール
1988年9月、札幌の石岡亨氏の実家にエアメールが届きました。石岡本人からの手紙で、消印はポーランド。封筒には、手紙、自分と有本恵子の氏名・住所・旅券番号・署名、そして、傷害保険証書と写真3枚が同封。手紙の内容は「私と松木薫さんは元気です。途中で合流した有本恵子君ともども3人で助け合って平壌で暮らしております」「衣服面と教育、教養面での本が極端に少なく、3人とも困っています」など。手紙と傷害保険証書は小さく折りたたんだ跡があり、便箋代わりに使われたレポート用紙を折りたたむと 「Please send this letter to Japan(Our adress is in this letter).」とボールペンで小さく書かれてありました。状況を考慮すると、北朝鮮では自由に郵便物の出せない監視下の生活を強いられ、北朝鮮国内で投函しても日本に届かないため、こうした手紙は外国人が外国で投函しなければならない状況であったことを示しています。
「北朝鮮で生存」という手紙を受け取った石岡氏の母は驚き、有本恵子氏の母に電話で連絡。有本の母も驚いて、家族や今まで恵子の件で相談してきた人びとに連絡。(松木の住所は単に「熊本市」とあるのみ、しかも、当時松木の実家が家庭の事情で薫の育った家を手放し、何度も引っ越しをしている最中のことだったので、その後2年間も連絡がとれなかったようです)
1988年09月XX日 有本恵子氏ご家族、外務省に相談
石岡家では、北朝鮮とのパイプがあると考えられた日本社会党にも手紙のことを相談し、そのことを有本家にも話したようです。社会党からは手紙のことを口外しないよう有本家に要請が入りました。(※28)
1990年の暮れ、松木家ともようやく連絡がとれ、翌1991年1月、三家族は初めて神戸市で面会。当初は世論にアピールするためのNHK会見を設定していたが、北朝鮮にパイプをもつと称する遠藤忠夫氏(左翼系出版物の版元で「よど号グループ」とも親交をもつ人物)により、会見は事実上、中止に追い込まれました。(※29)
有本氏ご家族は外務省や社民党にも相談を持ちかけていますが、どこでもけんもほろろに冷淡に対応されたようです。
それで県庁の受付の方に、「娘が帰ってこないままかなり経つんですが、こういう問題はどこに相談に行ったらいいんですか」と聞きましたら、「一度外務省に電話をかけられたらいいですよ」と言って、親切に外務省の電話番号を調べてくださって、「ここに電話をかけられたら」と言われました。
家に帰って早速電話をかけました。そうしたら外務省は、「お宅の子どもさんだけではないですよ」とおっしゃったんです。かなりの方が出たまま、パスポートが切れているのに帰ってきていないそうです。「娘さんは若いんだから好きな人でもできて今頃は楽しく暮らしているのではないですか」というような応対でした。
ひとつは、土井氏が一貫して「北朝鮮寄りの」立場を採り、「拉致疑惑など存在しない」などと公言し、拉致被害者の一人である有本恵子さんの両親が土井氏の事務所に相談を持ちかけても、すこぶる冷淡に扱ったことだ。
1989年07月14日 「在日韓国人政治犯の釈放に関する要望」提出される
当時の盧泰愚大統領あてに出された署名。拉致実行犯の辛光洙(シン・ガンス)を含む29人について「日本における合法的な生活、交友の中の一言動を理由として罪に問われている」と無罪を主張していた。署名した国会議員は、菅直人元総理、村山富市元総理、土井たか子元衆院議長らを含む133人。(※30)
救う会の西岡氏が、この辛光洙釈放の件についての見解を述べておられます。わかりやすいので抜粋。
北朝鮮にとって辛は時限爆弾のような存在だった。原さんだけでなく、地村保志・富貴恵さんと横田めぐみさん拉致の実行犯、曽我ひとみさんの教育係でもあったからだ。辛は原さん拉致については自白したが、地村夫婦と横田さん、曽我さんについては自白せず無期懲役で韓国刑務所に収監された。北朝鮮からすればなんとしても辛の身柄を確保したかった。そのための工作の一つが日本国会議員の署名集めだった。その後も執拗に努力を続け、2000年6月、金正日総書記が直接、金大中大統領との首脳会談で辛を含む元北朝鮮工作員らの送還を要求した。筆者は家族会の横田めぐみさんの両親らと韓国大使館に出向き、拉致実行犯を北朝鮮に送らず日本に送れと要求した。
かつての安倍幹事長代理(当時)がこの件について発言している動画が残っています。
03-05. 1991-2000
横田めぐみさんの拉致が確定するのがこの年代。家族会や救う会も動き出します。世間一般に拉致がようやく知れ渡るまで、これだけの歳月を要しました。
1997年01月21日 北朝鮮元工作員・安明進証言により横田めぐみ拉致が発覚
安明進は元々、北朝鮮でスパイ養成された人物です。韓国に脱北したのですが、その後消息不明になっています。特定失踪者問題調査会の荒木和博氏によると「2016年後半、彼は中華人民共和国で失踪したが、北朝鮮、中華人民共和国のいずれか、または両国の情報工作員によって殺害された可能性がある」との事です。
1993年に韓国に亡命した北朝鮮工作員の安明進さんは、めぐみさんと思われる、拉致された日本人女性について韓国当局に詳しく語った。「彼女のことは、とてもはっきりと覚えている」と彼は言った。「私は若く、彼女は美しかった」。めぐみさん拉致実行犯の1人だった工作員リーダーから、安さんは1988年にこの話を聞かされたという。それによると、彼女の拉致は予定外の失敗だった。子どもを連れ去ろうなどとは誰も考えていなかった。新潟での活動を終えた工作員2人が海岸で迎えの船を待っていたところ、道路にいた人物に目撃されたと感じた。発覚を恐れ、工作員らはその人を捕まえた。めぐみさんは13歳にしては身長が高かった。暗闇の中では、子どもだと気づかなかったのだという。
ここで難しいのが「安明進証言の信憑性がいかほどなのか」という点。懐疑的な意見も出ています。横田めぐみ氏拉致の大筋は合っているとは思われますが、ディテールは違う可能性もあります。(※31)ともあれ、ここで横田めぐみ氏拉致が判明して、世論は大きく動きます。
1997年03月25日 北朝鮮による拉致被害者家族連絡会(家族会)発足
拉致被害者のご家族同士の連絡会が発足しました。
1997年07月XX日 「月刊社会民主」で社民党が拉致問題を全否定
「月間社会民主」1997年7月号では、下記の論文が問題視されています。
「月刊日韓分析」編集員の北川広和「食糧支援拒否する日本政府」
「拉致疑惑の根拠とされているのは、つい最近、韓国の国家安全企画部(安企部)によってもたらされた情報だけである」「産経新聞に掲載された元工作員の証言内容に不自然な点がある」「拉致疑惑事件が安企部の脚本、産経の脚色によるデッチあげ事件との疑惑が浮かび上がる」「20年前に少女が行方不明になったのは、紛れもない事実である。しかし、それが北朝鮮の犯行とする少女拉致疑惑事件は新しく創作された事件というほかない。……拉致疑惑事件は、日本政府に北朝鮮への食糧支援をさせないことを狙いとして、最近になって考え出された事件なのである」(※32)
1998年04月XX日 北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(救う会)発足
家族会を支援するために、各地で次々に支援組織「救う会(名称は地域ごとに少しずつ異なる)」が生まれました。
1998年04月19日 鳩山由紀夫氏、前橋での演説
「困っているときに、拉致事件などの問題が解決しないと援助できないというのでは、彼ら(北朝鮮)の気持ちは和らげることができないのではないか」と発言しています。(※32)
1999年12月31日 金大中大統領によるミレニアム恩赦、辛光洙釈放
収監されていた辛光洙は、2000年を前にした韓国大統領の恩赦にて、奇しくも自由の身になってしまいます。
辛光洙らは韓国の裁判手続に付されまして、本件主犯の辛光洙につきましては、死刑判決が確定、その後、例のソウル・オリンピックの恩赦ですか、無期懲役に減刑されておる。そういったことで収監されていたものでありますが、我が国警察は、収監中におきましても、同人らに対する事情聴取の実施について韓国当局に要請してまいったところであります。ところが、いわゆるミレニアム恩赦によりまして、平成十一年十二月に、辛光洙が釈放されました。翌平成十二年九月に、北朝鮮に送還するという事態になりましたため、この際も、韓国当局に対し、同人の身柄の引き渡しの可能性について打診を行っております。
2000年04月09日 石原慎太郎東京都知事発言
陸上自衛隊記念行事での発言です。
国家の国民に対する責任の最大のものは国民の生命と財産を守るというのは自明なことであります。そしてまた、国民もそれを期待するがゆえに国家というものに対する責任あるいは忠誠というものを抱いてるに違いないが、しかし、残念なことに今日の日本の政治を眺めますと、北朝鮮にら致されていた、いたいけなあの少女1人を救うこともできずに、これは政府の責任であると同時に私は国民1人1人の責任というものが結束していないその証拠ではないかという気が強くいたします。
2000年10月XX日 共産党志位和夫氏発言
「(拉致問題を)国交正常化交渉で取り上げる以上、どこに出しても通用する確たる根拠、証拠を示すべきだ」と発言。(※33)これは証拠不足を元に北朝鮮に融和的に進むよう発言したようにも思えますし、逆に「きっちり証拠を突き付けないと揚げ足を取られて逃げられてしまうから」という意味合いにも思えます。
03-06. 2001-2010
大きく進展した小泉訪朝がこの年代です。5名の帰国が実現しました。が、話し合いは数多く開催されますが、問題は停滞期に入ってしまいます。
2001年01月XX日 和田春樹東大名誉教授「世界」にての発言
彼は横田めぐみ氏拉致に否定的な見解を寄せています。これは後に撤回・弁明をしておられるようです。
横田めぐみさん拉致の情報は、その内容も、発表のされ方も多くの疑問を生むものである。安明進の証言の進化のあとを、一九九四年、一九九五年、一九九七年、一九九八年と系統的に点検すれば、信頼度が低いものと結論せざるをえない。となれば、石高氏が伝える韓国情報部高官の話しかのこらないのだが、石高氏の説明にも多くの疑問点が存在する。石高情報だけでは、一九九七年二月の時点で、日本政府自体が拉致疑惑を認定できないとしたのである。以上の検討からして、横田めぐみさんが拉致されたと断定するだけの根拠は存在しないことが明らかである。そういう情報が韓国情報機関から流されているのなら、拉致されたかもしれないという疑惑が生じうるという以上の主張は導き出せないと思われる。
2002年09月17日 第1回日朝首脳会談(平壌)
日本側:小泉純一郎 北朝鮮側:金正日国防委員長
北朝鮮は、長年否定していた日本人の拉致を初めて認めて謝罪をしました。当時日本政府が北朝鮮による拉致の疑いがあるとしていた13名について、北朝鮮からの発表は下記の通りでした。これは後の調査で事実にそぐわない事が判明していますが…(※34)
(生存確認している)
地村保志氏、地村富貴惠氏、蓮池薫氏、蓮池祐木子氏4名については生存を(死亡している)
横田めぐみ氏、田口八重子氏、市川修一氏、増元るみ子氏、石岡亨氏、松木薫氏、原敕晁氏、有本恵子氏
(北朝鮮入境が確認できない)
久米裕氏
日本側が調査依頼をしていなかった曽我ひとみ氏について拉致を認め、その生存を確認。他方、北朝鮮側は、母親の曽我ミヨシ氏については、入境の事実はない旨主張しました。その上で、北朝鮮は「関係者の処罰」「再発防止」「家族の面会及び帰国への便宜を保証する」と約束しました。
日朝平壌宣言はこの時に成立しました。
日朝会談実現までの舞台裏はNHKクローズアップ現代の記事参照。
2002年09月28日 調査チームが派遣される
9月28日から10月1日、政府派遣による事実調査チームが生存者と面会、安否や消息未確認の方についての情報収集に努めました。北朝鮮提供の情報がそもそも限られていて、一貫性に欠け、疑念が多々含まれていました。
松木薫氏のものと思われるとして提供を受けた遺骨については、法医学的鑑定の結果、別人のものと判明。(後述)同年10月29日及び30日にクアラルンプールで開催された第12回日朝国交正常化交渉でも、政府は150項目にわたる疑問点を指摘、更なる情報提供を要求。北朝鮮側からのまとまった回答はありませんでした。(※35)
2002年10月15日 拉致被害者5名帰国
初めての「成果」がここです。惜しむらくは「ここで停滞してしまった事」ではありますが、ともあれ5名の生還は喜ばしいですね。
拉致被害者5名(地村保志氏、地村富貴惠氏、蓮池薫氏、蓮池祐木子氏、曽我ひとみ氏)が帰国、家族との再会を果たされました。(※36)
日テレの当時の映像がYoutubeにありましたので、是非是非ご覧ください。
お時間が許すなら、記事全体の読了後に再度ご覧ください。
2002年10月24日 拉致被害者5名、日本に残る方針決定
帰国された方の北朝鮮にいるご家族の事も考えないといけません。政府は、5名の拉致被害者が「北朝鮮に残してきた家族も含めて自由な意思決定を行い得る環境の設定が必要である」との判断の下、5名の拉致被害者が日本に引き続き残ること、北朝鮮に対して、北朝鮮に残っている家族の安全確保及び帰国日程の早急な確定を強く求める方針を発表しました。(※37)
2002年11月XX日 辻元清美議員、北朝鮮に言及
辻本清美衆議院議員(当時社民党)はメールマガジンで日朝関係に触れ「拉致問題というのはこれまでにも世界のいろいろなところで起きているんです」「(日韓併合について)北朝鮮には補償を何もしていない」「そのことをセットにせずに『9人、10人返せ!』とばかり言ってもフェアじゃないと思います」と、これも北朝鮮の論調とほぼ同じことを主張。(※38)
2002年12月11日 「北朝鮮当局によって拉致された被害者等の支援に関する法律」成立
政府認定拉致被害者の生活基盤再建支援の法律です。帰国被害者等が日本にて生活する場合の、拉致被害者等給付金等の支給、国民年金の特例などが規定されています。
2003年01月10日 特定失踪者問題調査会発足
2002年に帰国した5名の中に政府が拉致としていなかった曽我ひとみ氏が含まれていました。そのため「自分の家族も北朝鮮に拉致をされたのではないか」という申し出が警察や救う会全国協議会に殺到。拉致の可能性のある失踪者について調査するため設立されたのが特定失踪者問題調査会です。救う会から分派した形ですね。(※39)
2003年08月27日 第一回六者会合
日本、米国、韓国、中国、ロシア、北朝鮮の会合が行われました。核問題、拉致問題などが議題に上がっております。(※40)
2004年05月22日 第2回日朝首脳会談(平壌)
日本側:小泉純一郎 北朝鮮側:金正日国防委員長
拉致問題や、核、ミサイルといった安保上の問題等につき議論が行われました。拉致問題に関しては、以下の点が両首脳間で申し合わされました。
・北朝鮮側は、地村さんの御家族と蓮池さんの御家族の計5名が、同日、日本に帰国することに同意する。
・安否不明の拉致被害者の方々について、北朝鮮側が、直ちに真相究明のための調査を白紙の状態から再開する。
この申し合わせに基づき、地村氏の御家族と蓮池氏の御家族の計5名は小泉総理と共に帰国した。曽我ひとみ氏の御家族3名については、7月18日に帰国・来日が実現した。曽我ひとみ氏の御主人である、元米兵のチャールズ・ジェンキンズ氏についてはリンク参照(※41)
2004年06月28日 「特定船舶の入港の禁止に関する特別措置法」施行
法律条文においては、特定の国名記載はありませんが、実質的には北朝鮮への経済制裁措置の一環、万景峰号入港を制限するものです。
入港禁止船舶の一覧はこちら。万景峰号のみ名指しです。
2004年11月09日 日朝実務者協議
この協議で北朝鮮は、横田めぐみ氏の「遺骨」等の多数の資料や物証を提示しました。拉致被害者家族を始め日本国民は事件解明につながるものと大きな期待を寄せましたが、後に「遺骨」はDNA鑑定の結果、全く別人のものと判明しました。(※42)
2005年12月16日 国連総会本会議「北朝鮮人権状況決議」初採択
ここから国連では開催ごとに連続でこの決議を採択し続けます。なお、本会議のみならず国連人権委員会も同様に「北朝鮮の人権状況」決議を採択し続けます。
2006年02月04日 日朝包括並行協議(北京)
日本は北朝鮮に対し、生存者の帰国、真相究明を目指した再調査の約束、容疑者(シン・ガンス、キム・セホ、魚本公博)の引渡しを繰り返し強く要求。北朝鮮からは、具体的な進展は示されませんでした。
※特定失踪者やキム・セホの調査等には応じる姿勢(※43)
2006年07月XX日 日本独自の対北朝鮮経済制裁開始
・北朝鮮の貨客船、万景峰号の入港禁止
・原則、北朝鮮当局の職員の日本への入国を認めない措置(※44)
※その後も複数回にわたって日本は北朝鮮への経済制裁を行っています。
2006年07月、2009年04月、2009年06月、2010年05月、2016年02月
2016年12月、2017年07月、2017年08月、2017年11月、2017年12月
2006年09月29日 政府拉致問題対策本部設置決定(1)
拉致問題に関する対応を協議、戦略的取組み並びに安否不明の拉致被害者に関する真相究明、生存者の即時帰国に向けた施策等総合的な対策を推進するため、内閣に拉致問題対策本部を設置するというものです。(※45)
当時は第1次安倍内閣時代、全閣僚を構成員とするものでした。
2007年03月08日 第1回「日朝国交正常化のための作業部会」(ハノイ)
日本は「日朝平壌宣言に則り、拉致、核、ミサイル等の懸案事項を包括的に解決し、不幸な過去を清算することを基礎として国交正常化を実現するという基本的方針の下、積極的に作業部会に取り組む用意がある」との基本的立場を表明。しかし、拉致問題についても、また不幸な過去の清算についても、日朝間の立場が依然として乖離しており、具体的成果はなし。拉致問題に関する日本側の発言に北朝鮮側が反発して協議中に席を立ったため、実質的な協議を行うことができなかったようです。(※45)
2007年07月06日 「拉致問題その他北朝鮮当局による人権侵害問題への対処に関する法律」施行
政府に対し「北朝鮮人権侵害問題啓発週間の実施、年次報告の提出および公表、国際連携の強化、人権侵害状況が改善されない場合における抑止のために特定船舶入港禁止法や外国為替及び外国貿易法に規定された必要な措置などを講ずること」が求められる法律。また、諸外国や国際機関等に対しても働きかけを行うように定められています。
2007年07月09日 広報用短波ラジオ番組「ふるさとの風」開始
北朝鮮に拉致され、今も北朝鮮に囚われている日本人に向け、日本政府が放送している番組です。拉致問題についての日本政府の取組や、日本や北朝鮮を巡る状況、拉致被害者の御家族・御友人からのメッセージ、懐かしい日本の歌などをお届けしています。
2007年09月06日 第2回「日朝国交正常化のための作業部会」(ウランバートル)
2日間にわたり、双方の関心事項につき、時間をかけてじっくりと意見交換を行い、それぞれの立場についての理解を深めることができたようです。今後、日朝平壌宣言に則り、日朝間の不幸な過去を清算し、国交正常化を早期に実現するため、双方が誠実に努力することとしました。ただ、具体的な進展はここでもなし。(※46)
2008年06月11日 日朝実務者協議(北京)
日本側より「すべての拉致被害者の帰国、真相究明、被疑者の引渡し」等を改めて要求し、日本側の立場を詳細に説明。未解決の懸案である拉致問題の最終的な解決に向け、北朝鮮側があらためて決断し、具体的行動をとることを強く要求。また「よど号」ハイジャック犯5名、及びその妻2名の引渡しを改めて要求(5名のうち1名及び妻2名は拉致事案の容疑者。また、5名のうちの1名については死亡情報あり)(※47)
2008年08月11日 日朝実務者協議(瀋陽)
6月の日朝実務者協議で双方が表明した措置、特に北朝鮮による拉致問題の調査のやり直しの具体的態様につき、突っ込んで議論がなされました。結果、北朝鮮実施の拉致問題の調査の具体的態様、日本側が実施する措置及び双方の措置実施のタイミングに合意。(※48)
2008年09月04日 北朝鮮、調査見合わせの連絡
北朝鮮側から「先の日朝協議の合意事項を履行するとの立場であるが、突然日本での政権交代(福田総理の辞任)が行われることになったことを受け、新政権が協議の合意事項にどう対応するかを見極めるまで調査開始は見合わせることとした」と連絡がありました。(※49)
2009年10月13日 政府拉致問題対策本部設置決定(2)
鳩山由紀夫内閣は旧拉致問題対策本部を廃止、陣容を改めて拉致問題対策本部を発足させました。情報収集面では旧拉致問題対策本部よりも人員・予算を増加させました。本部は内閣に、事務局は内閣官房に属します。政府が省庁横断で拉致事件へ対応していく目的。(※50)
03-06. 2011-2020
協議は数多く開催されています。経済制裁もあれこれやっています。が、この問題は「厄介な相手がいる」問題。日本のみがどうにかしようとしても自ずと限界が。そんな中で我々が期待を寄せたのが「米朝首脳会談」でした。
2011年11月07日 田原総一郎氏、被害者ご家族への発言で敗訴
拉致被害者の有本恵子氏に関しての話題で、田原総一朗氏がTV番組で「外務省も生きていないことはわかっている」と発言しました。このことを巡り、有本さんの両親が慰謝料を求める訴訟。神戸地裁は「合理的根拠のない発言で生存を願う原告の感情を害した」として、同氏に100万円の支払いを命じました。(※51)
2012年11月16日 第1回日朝政府間協議(ウランバートル)
日本側は、日本人遺骨、残留日本人、日本人配偶者,「よど号」事件などの日本人にかかる諸問題を提起、北朝鮮側はこれらの問題につき協力していくこととしました。拉致問題については、(政府認定拉致被害者以外の)その他の拉致の疑いが排除されない方々の件についても日本側から提起し、議論を行いました。(※52)
2013年01月15日 政府拉致問題対策本部設置決定(3)
第二次安倍政権は、全ての国務大臣からなる新たな「拉致問題対策本部」を設置しました。総理大臣が本部長を、拉致問題担当大臣、内閣官房長官及び外務大臣が副本部長を務めます。(※53)
2013年08月05日 アントニオ猪木氏が特派員協会で独自見解
アントニオ猪木参院議員(当時)が、有楽町の日本外国特派員協会で記者会見。拉致問題に関連するニュースで事実上日本国民が洗脳されているとの見方を示した上で、北朝鮮側の立場にも配慮しながら「落としどころ」を探ることの必要性も説いたようです。講演の際には「拉致が解決したら、我々は幸せになれますかね?」と問題提起もしていました。(※54)
2014年03月11日 横田滋氏・早紀江氏、孫娘ウンギョン氏と対面
モンゴルのウランバートル大統領迎賓館にて、横田めぐみ氏の娘(横田滋氏、早紀江氏からみたらお孫さん)のウンギョン氏と、その娘のチオニちゃん(当時生後10ヶ月)と対面を果たすことが出来ました。政府が用意した極秘渡航でした。
さて、上記の記事は「10年前の出来事を記事にした今年の4月の記事」ですが、の中で気になる点があります。写真提供は横田夫妻からではなく、有田芳生事務所なのですね。これに関しては後述。
2014年03月31日 第2回日朝政府間協議(北京)
日本側は、日本人遺骨、残留日本人、日本人配偶者、「よど号」事件などの諸問題をこれまでの協議に引き続き提起。北朝鮮側からは、歴史問題について提起。日本側は日朝平壌宣言に則って解決をはかる意思を表明。(※55)
2014年05月29日 日朝政府間協議(ストックホルム)ストックホルム合意
北朝鮮側は、拉致被害者を含む全ての日本人に関する包括的かつ全面的な調査の実施を約束しました。 日本側も北朝鮮側のこうした動きを踏まえ、北朝鮮側が調査のための特別調査委員会を設立、調査を開始する時点で、対北朝鮮措置の一部を解除することとしました。(ストックホルム合意)(※56)
2014年07月01日 日朝政府間協議(北京)
北朝鮮側から、特別調査委員会の組織、構成、責任者等に関する説明がありました。7月4日、北朝鮮側は、国営メディアを通じ、特別調査委員会の権限、構成、調査方法等について、日本側の理解と同趣旨の内容を内外に公表
し、拉致被害者を含む全ての日本人に関する調査の開始を発表しました。
日本側は、人的往来の規制措置並びに支払報告及び支払手段等の携帯輸出届出の日朝政府間協議下限金額の引下げ措置を解除、人道目的の北朝鮮籍船舶の入港を認めることとしました。(※57)
2014年09月29日 日朝外交当局間会合
北朝鮮から調査の現状説明を受ける目的として、日朝外交当局間会合が開催されました。北朝鮮側からは「現段階では日本人一人ひとりに関する具体的な調査結果報告はできないが、日本側が平壌を訪問して特別調査委員会のメンバーと面談すれば調査の現状についてより明確に聴取できるであろう」との説明がありました。(※58)
2014年10月29日 特別調査委員会との協議
日本側は、政府認定の有無にかかわらず、全ての拉致被害者を発見し、即時帰国させることを求めていることを繰り返し伝達しました。また、迅速な調査報告も、北朝鮮側に強く求めました。北朝鮮側からは、委員会及び支部の構成、証人や物証を重視した客観的・科学的な調査を行い、くまなく調査を深めていく方針について説明がありました。調査委員会は、北朝鮮の最高指導機関である国防委員会から特別な権限を付与されており、特殊機関に対しても徹底的に調査を行うと説明。(※59)
2015年01月01日 「北朝鮮当局によって拉致された被害者等の支援に関する法律の一部を改正する法律」施行
一部改正。新旧対照表はこちら。(※60)
2015年08月06日 岸田外務大臣と李洙墉北朝鮮外相会談
日本側からは、昨年5月の日朝合意の履行を求めつつ、一日も早い全ての拉致被害者の帰国を強く求めました。これに対し、先方からは、ストックホルム合意に基づき特別調査委員会は調査を誠実に履行している旨の説明がありました。(※61)
2016年02月12日 北朝鮮による一方的な特別調査委員会の解体宣言
日本は、1月の核実験および2月の弾道ミサイル発射等を受け、対北朝鮮措置の実施を発表。それを受け、北朝鮮は拉致被害者を含む全ての日本人に関する包括的調査の全面中止及び特別調査委員会の解体を一方的に宣言した。ストックホルム合意の一方的な破棄となります。(※62)
2016年06月09日 「週刊文春」が横田夫妻と孫娘の対面を記事に
当時はかなり話題になりました。疑問点は「この写真の入手はどこからなのか?」です。
救う会は即座に抗議をしています。
2017年09月19日 トランプ大統領、国連演説で横田めぐみ拉致に言及
トランプ大統領は、国連総会で、日本人拉致事件を厳しく糾弾する演説を行いました。「日本の13歳のかわいらしい少女が海岸から拉致され、北朝鮮工作員に語学を教えることを強いられた」というものでした。トランプ大統領は核問題にも触れ、かなり厳しい口調で北朝鮮を批判したのですが、これに対して北朝鮮側もかなり強烈な反発をしています。金正恩朝鮮労働党委員長の声明は、「妄言に代価を支払わせる」「米国の老いぼれの狂人を必ず火で罰する」などのものでした。(※63)
2017年11月06日 トランプ大統領御夫妻、拉致被害者御家族と面会
場所は迎賓館、安倍総理御夫妻と加藤拉致問題担当大臣が立ち会われています。
2018年06月12日 第1回米朝首脳会談(シンガポール)
米国大統領と北朝鮮総書記が対面するのは史上初でした。
核問題がやはりメインであり、拉致問題は共同声明に盛り込まれませんでしたが、トランプ氏は会談後の記者会見で「(会談で)取り上げた。シンゾーの最重要課題でもあるからだ」と述べられました。(※64)
2019年02月27日 第2回米朝首脳会談(ハノイ)
2日間に渡って行われました。初日、トランプ大統領は金正恩総書記に直接、また、その後の少人数の夕食会でも拉致問題を切り出しました。北朝鮮の取り組みについて「顕著な進展を見せていない」と迫り、金氏が言い逃れを繰り返す場面もあったようです。トランプ氏は初日の会談後、「これでは(中身のある回答を約束した)シンゾーに伝えることがない」との認識を示したとも報道されています。金正恩総書記は日朝間の課題に「解決済み」としてきた公式見解に反し、「拉致問題」があるとの認識を示しました。また安倍総理とも「会う用意がある」と発言。ただ、この時は共同声明まで至らずに終了しています。
2019年06月30日 第3回米朝首脳会談(板門店)
トランプ氏は現職の米大統領として北朝鮮を初訪問。トランプ氏は会談後、記者団に「とても良い会談だった。スピードではなく包括的な合意が重要だ」と非核化交渉を急がない姿勢を改めて示し「対北朝鮮制裁は続く」と述べられました。ただ、拉致問題の進展はここでもありませんでした。
この年表に「解決済、続きが無くなる」を願って…
04. 拉致被害者・特定失踪者
これは「政府認定があるかないか」が基準となります。が、政府認定がないから切り捨てではなく、政府は特定失踪者に関しても交流をし、情報交換や支援を行っています。
04-01. 拉致認定被害者
画像が小さいから名前だけ記載します。上記年表に各人の詳細があるから、是非ご確認ください。(敬称略)
久米裕 拉致された日:1977年09月19日 / 当時52歳
松本京子 拉致された日:1977年10月21日 / 当時29歳
横田めぐみ 拉致された日:1977年11月15日 / 当時13歳
田中実 拉致された日:1978年06月頃 / 当時28歳
田口八重子 拉致された日:1978年06月頃 / 当時22歳
地村保志 拉致された日:1978年07月07日 / 当時23歳 ※2002帰国
地村富貴惠 拉致された日:1978年07月07日 / 当時23歳 ※2002帰国
蓮池薫 拉致された日:1978年07月31日 / 当時20歳 ※2002帰国
蓮池祐木子 拉致された日:1978年07月31日 / 当時22歳 ※2002帰国
市川修一 拉致された日:1978年08月12日 / 当時23歳
増元るみ子 拉致された日:1978年08月12日 / 当時24歳
曽我ひとみ 拉致された日:1978年08月12日 / 当時19歳 ※2002帰国
曽我ミヨシ 拉致された日:1978年08月12日 / 当時46歳
石岡亨 拉致された日:1980年05月頃 / 当時22歳
松木薫 拉致された日:1980年05月頃 / 当時26歳
原敕晁 拉致された日:1980年06月中旬 / 当時43歳
有本恵子 拉致された日:1983年07月頃 / 当時23歳
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04-02. 特定失踪者
拉致の可能性を排除できない失踪者を「特定失踪者」と呼びます。これは勿論「北朝鮮による拉致以外での可能性」もありますし、特定失踪者と考えられていた方が国内で発見されたケースなどもありましたが、かなり濃厚に拉致の可能性が高いと思われる方も多数いらっしゃいます。
05. 政府機関・支援団体等
多くの方がこの問題に取り組んでおられます。事件発生が1970年代中心なので「過去の事」と捉えられないよう、風化させないように必死の思いで動いておられます。
05-01. 政府拉致問題対策本部
組織的には幾度か再編されています。現行組織は2013年から稼働しています。
05-02. 「北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟」 (拉致議連)
旧拉致議連が機能不全に陥り、2002年4月に超党派で発足。石破茂(会長)、小池百合子(副会長)、米田建三(副会長)、高市早苗(副幹事長)など。中川昭一、原口和博、松原仁なども名を連ねていました。
(敬称略)
05-03. 各省庁・地方自治体
中央省庁
外務省、法務省、警察庁 それぞれリンク先をご参照ください。
地方自治体
みなさんがお住まいの都道府県でも様々な啓蒙活動が行われています。是非、下記リンクの都道府県の箇所をご確認ください。
05-04. 北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(救う会)
家族会を起点に発足されました。この問題へ取り組む方々の「中心的存在」であり続けています。
05-05. 北朝鮮による拉致被害者家族連絡会(家族会)
家族会単独のWEBサイトはないようです。実質、救う会とメンバーが重複になりますしね。
05-06. 特定失踪者問題調査会
政府が拉致認定してはいないものの、北朝鮮による拉致の疑いが濃厚な「特定失踪者」を調査、この問題の啓発を行う組織です。短波放送しおかぜも特定失踪者問題調査会の企画です。
05-07. 予備役ブルーリボンの会
自衛官OB、即応予備自衛官、予備自衛官、予備自衛官補から構成される純粋な民間団体です。
06. 工作員関連
拉致問題の話題になると、一定の頻度で過去の工作員の名前があがってきます。もうすでに現役ではなかったりするでしょうが、経緯把握のお手助けになるかと思いますので、複数名ピックアップ。
06-01. 辛光洙(シン・グァンス)
上記年表にも出てきますが、最も有名な部類の工作員です。
06-02. 安明進(アン・ミョンジン)
1993年に脱北、韓国に亡命。北朝鮮では、朝鮮労働党中央委員会直属政治学校でスパイとしての教育を受けたようです。拉致被害者に関して多数の目撃証言をしています。現在は行方不明。
1999年の韓国の映画「シュリ」の演技指導を行ったのが安明進であったとの事。
06-03. 金世鎬(キム・セホ)
「宮本明」という名を用い、北朝鮮の貿易会社員の肩書を名乗って日本に潜入、拉致事件を起こしています。宇出津事件の主犯格。下記の記事は「金吉旭」の記事ですが、終盤に金世鎬の記述があります。
06-04. 金賢姫 (キム・ヒョンヒ)
彼女は拉致問題ではないものの、大韓航空機事件の犯人ですし、北朝鮮の工作員としては一番有名なので、ピックアップ。彼女は北朝鮮で田口八重子氏(現地では李恩恵と名乗っていたようです)である可能性が高い日本人から教育を受けたとの事。
07. 他国の被害状況
北朝鮮による拉致の被害者は日本にとどまりません。被害者が韓国にも多数いることが知られていますが、タイ、ルーマニア、レバノンにも北朝鮮に拉致された可能性のある者が存在することが明らかになっています。北朝鮮から帰還した韓国人拉致被害者等の証言では、中国人等の拉致被害者も存在するとされています。(※65)
07. 私たちに出来る事
政府関係者と違って、私たち民間人には「他国と連携する動き」も出来ませんし、ましてや北朝鮮と交渉することも出来ません。でも、少ないなりに出来ることをやっていくしかないと思います。政府の尻を叩く、かつ応援する、風化の防止に協力する、などですね。
2024年12月14日の動画です。拉致被害者のご家族は風化を恐れておられます。この問題は「未解決・かつ進行形」です。
北朝鮮が一番望んでいる展開も「風化してしまい、誰も関心を持たなくなる」でしょう。だったら、微力ではありますが、私はこの問題を幾度でも語っていきたいと思います。
知る事、伝える事、ブルーリボンを着ける、寄付をする、署名をするなどで「火を絶やさない」事は私にもお力になれるかなと思います。