老子とよばれた存在の歌声【散文詩紹介】
中国の道の教えにおいて、老子を術として芸を現す。
近代において、インドでは和尚(ラジニーシ)を術として芸を現す。
それは普遍の道であり、道は術に添って芸を現す。
ここで言う術とは法則であり、芸とは表現である。
それは感性の歌声であり、悠然たる道を示してくれる。
歌声
星々のきらめきを、人は何故感じとることが出来るのだろうか。
それは太古の記憶、貴方が星々そのものであったときの記憶、
貴方はそれを下界に見ている。
万物の優美さに比べ、人間の何とはかないことよ。
しかし、万物も又、貴方の太古の記憶、
貴方が万物そのものであったときの記憶、
貴方は人間という形態を通して、万物を下界に見ている。
そこには距離がある。
求めても得られないへだたりがある。
求めれば遠のいていくような、空しさがある。
それは太古の記憶であるはずなのに、人はそのワナに陥る。
風の流れる様に、貴方は貴方自身を溶け込ませようと懸命になる。
水が流れるがごとく、貴方もそのように在りたいと願い努力する。
自然の荘厳さを真のあたりにして、貴方は感動する。
しかし、貴方は理解出来ないだろう。
自然の前に・・・はるかはるか自然の前に
・・・・感動があったことを貴方は理解出来ないだろう。
貴方が下界を通して感じとれること全ては、まやかしである。
それは水が無き所を、水が在るがことくの錯覚に等しい。
感動する心、素直な心、
それは人間という形態をとる以前に、
貴方がはるか以前に、
太古のはるか・・・それ以前の太古に所有していた、
その感動する心、素直な心を、貴方は忘れてしまっている。
下界に見えるもので、貴方が受け取れるものは何も無い。
貴方が太古に受け取ったものが、泉のごとく現われ、
消えているだけである・・・・・そう
・・・自然も又、現われ消えし縁にしか過ぎない。
星々のきらめきも、子供の純粋な目も、感謝も、感動する心も、
明るい心も、素直な心も、人生を前向きに生きる心も、
貴方自身を輝かせようとする心も、
下界から、又他者から、又書物から、
その 満たしを 永遠に受け取ることは出来ないことを、
よくよく知りなさい。
全ての心は太古の記憶、
その心の泉を貴方は感じとる必要がある。
溢れんばかりのその泉は、今も貴方を導きつづけているのに、
貴方はそれを忘れ、朽ち果てている。
そして、下界に、他者に、書物に、それを求めようとしている。
なんと、儚い幻想だろうか!
心は既に在るもの、手に入れる必要はなく在るもの、
貴方はそれを想い出す必要がある。
貴方は孤独に染まりきっている。
しかし理解出来ないだろう、
貴方が子を失い、妻を失い、友人を失い、その全てを失ったときに、
貴方はようやく理解するのかも知れない・・・
貴方がいかに孤独であったかを・・・そう
・・・今、貴方の環境は全てまやかしである。
全て失っても、地球の中に貴方が立っている・・・
この真実を、貴方に感じとれるだけの余裕があるだろうか?
貴方はそのことを忘れ、貴方自身を見失っている。
全ては懐かしき太古の記憶、貴方はそれを想い出す必要がある。
星々のきらめきを感じる貴方の瞳そのものが星々のきらめきであり、
太古の懐かしき姿が顕れたのである。
貴方よ、目を覚ましなさい。