見出し画像

【連載第59回より】江戸城とその周縁の初期写真・選  『もう一枚あった「ミッドウェー海戦」戦争画山口司令長官が『飛龍』と運命を共にした謎』

清水あつし(芸術監督・ギャラリー・シェイクスピア)

最近当画廊は、北蓮蔵の戦争画『提督の最期』を入手した。これは題名で検索してもすぐ出るが、昭和十七年日本の運命を変えた ミッドウェー海戦で山口多聞司令長官が、空母飛龍と運命を共にする史実を描いた歴史的 名画だ。戦争画の最高峰と言えば藤田嗣治のアッツ島、サイパン島玉砕を描いた絵が有名 だが、『提督の最期』もそれに次ぐような名 品だ。日本海軍が緒戦からの大戦果に有頂天 になり、情報戦・暗号解読・索敵偵察の不備 など、いやそれ以上に慢心と驕りが原因で 大敗を喫し、日本の岐路を分けた作戦として、今のビジネス書やゲームの世界でも常連 のテーマになっている。その中で米機動部隊に果敢に反撃した空母飛龍と山口長官の奮戦も、また知られている。

この絵を最初見た時気づいたのは、「作戦記録画」として展覧会に出品された正式な『提督の最期』が猛火に包まれる艦上の山口長官 らを不動明王か阿修羅のように、神話的叙事 詩的に昇華させたのに比べて、こちらは逆に 現実の空母艦上での訣別挨拶を恐らく関係者 からの聞き取りでリアルに描いた実景なので は、という事だった。実際に立ち会った幕僚らは駆逐艦に移乗して生還し、その最期の言葉や模様を伝えている。しかし正式な絵が日 本の宗教画なら、この第二種軍装(夏期や戦 闘時に着用した)の山口司令長官らの姿は、 その分緊張感を損いつつも、逆に路傍で聖者 が道を説く西洋歴史画宗教画のようだ。だからまあ、描き直されたのだろうが。 さて飛龍会による『空母飛龍の追憶』(一九八四年・私刊)を私も古書店で昔入手 して読み、長らく不思議だったのは、なぜ山口長官が艦と運命を共にしたのか、という事 だった。当時敗戦や艦を喪失した責任感から 自決する者が多く、戦争の長期化に伴いそれ らの「戦死」には海軍省でも頭を痛めていた。 山口多聞は山本五十六に次ぐ海軍航空育ての 親として周囲の期待を集め、またプリンスト ン大学に留学する等知性の人でもあった。

攻撃隊に発した「司令官干後カラ行クゾ」
山口自身が海軍航空のトップとして、今眼前に起きている空母大火災、その脆弱性や運用・作戦の失敗、それによって多くの部下・ 兵士を死なせてしまった事に衝撃を受け、責任を取った事はわかる。しかし同時に、生き延びてその改善を図るのもエリートの義務と も合理的に理解しただろう。今回山口多聞提督の子息・山口宗敏氏の著書『父・山口多聞』(光人社文庫・二○○六年)を紐解いて、 初めてその謎が解けた。山口多聞はハワイ第 三次攻撃の有名な具申電文、そしてミッド ウェーでも敵空母への攻撃具申の電文を自ら 書いたのだが、この飛龍からの第一次・第二次攻撃隊に対しても決死の肉薄攻撃を命令して、その文末に「司令官干後カラ行クゾ」と 自ら書き入れていたのだ。長官の命に応えて 飛龍攻撃隊は多くの犠牲を出しながら、米空母「ヨークタウン」に命中弾を与えている。

そこに自分の発した言葉に対する山口の、 人間としての誠実さを感じない訳にはいかない。戦後日本は「嘘も方便」と政治家などの ウソは責任を問われなくなり、その政治家を長として仰ぐ役人もまた当然嘘をつき、国民もそれを容認する世になった。人間の生死の重さと、言葉の重さの軽重を問う等という発想は全くない。

さてこの絵画は既に東京国立近代美術館にも画像を送り、調査をお願いした。澤地久枝『記録ミッドウェー海戦』(ちくま学芸文庫・ 二○二三年刊)によれば、この海戦では米軍 側に幸運があったが、それでも航空機搭乗員 で日本側の二倍近い二百八名の戦死が確認さ れて、決して楽な戦いではなかった。絵の中 の山口長官は「驕りは無いか」「情報収集は」 と今も訴えたいだろうが、学歴詐称の都知事 とか、工作に功があったとされる某区長だの がはびこる世の中では、美術館からもこの絵 は煙たがられてしまいそうだ。

【絵と展覧会の案内はギャラリーのHP参照】


今回の古写真・選

鶏卵紙写真 「築地海軍所」と「海軍省」(明治5から10年頃)


海軍省は兵部省から分かれて、明治5年に設立された。築地には江戸幕府の操練所が あり、初代の海軍卿は勝海舟だった。「築地海軍所」という裏のキャプションは曖昧だが、 生徒たちの姿を含む海軍兵学寮の写真の様だ。「海軍省」の写真でも塔の先端が右上に見 える。海軍省は明治27年に霞ヶ関にコンドル設計による新庁舎が完成して移転したが、 その後も築地には海軍軍医学校、経理学校などの海軍関係施設が終戦まで残る事となった。 さて志願兵中心の帝国海軍は、兵学校卒の士官と現場を支える職人集団的な下士官・ 兵で構成されていたが、航空など近代戦への対応で昭和5年、高等小学校卒の生徒を「予 科練習生」として採用し、彼らが多く戦中の航空搭乗員として戦いの一線に立つ事になっ た。何処の国も搭乗員を確保する為に、戦時に大学生などのエリートを緊急養成する事 となったが、日本では軍隊の抜きがたいインテリ蔑視があって、その面でも後れを取る 事になった。(参考・吉田裕『日本の軍隊』岩波新書・2002年)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?