悪魔祓いという名の暴力

1954年4月に小学校入学しました。
近所の困った家の人に手伝いを頼まれる母は断ることなく手伝っていたので、ほとんど野良着を着ていることが多かったのです。
ですから入学式の日は晴れ着を着た母と一緒に学校に行けることがとても晴れがましく誇らしくて嬉しかったのを覚えています。
学校の校門に沿って植えられた桜の花が満開で、時折り強い風が吹くと桜の花が舞うのも妙に心をざわつかせ喜ばせてくれたし新しい生活が始まることがなんにでも興味を持ち物おじしない私をわくわくさせてくれました。
まさか、入学と同時に死刑宣告のような病気であると言われることなど考えてもいませんでした。
入学して間もなく集団検診があり再検査をするように言われた結果、私は小児結核であると診断されました。
祖父が死んだのは結核でした。父は母と再婚する前に二人の女性と結婚していて二人とも結核で亡くなっています。身寄りのない復員軍人さんを引き取って最後(墓場)まで面倒をみましたが彼も結核で亡くなっています。
復員軍人さんを自宅の北の間で療養させていましたが、そこには近づいてはいけないというのに幼い私だけが彼の部屋に入り込んでいたそうです。
何が原因かはわかりませんがただ分かったことは私が小児結核で長期の療養をしなければいけなくなったということです。
毎日薬を飲まねばならないことが厭、近所の人がマムシを捕まえたらそれを食べないといけないことや蜂の子を食べさせられることが苦痛でした。
両親にしたら滋養をつけて体を丈夫にしたい一心だったと思います。
特に父は自分の大切な人を結核で何人も亡くしていたからなおさらだったと思います。
では母の場合はどうだったでしょうか。
まさか母の思いやりが私の心に今も残る大きな傷を作ることになるとは誰も思わなかったでしょう。
いや、私は母が思いやりだと思ってしたことを誰に言えませんでした。
特に父が私の身に起こったことを知ったらどれほど苦しむかと思うと尚更話せませんでした。
母の妹、私の叔母にあたるひとが新興宗教の信者だったことが悲劇の始まりでした。
叔母は母に言ったそうです。「8人も子供がいてあの子だけが大病を患うのはおかしい、あの子は何かに憑りつかれているからお祓いをして悪いもんを追い出さないかん」無知な母はその言葉を信じて私を叔母の指示する場所に連れて行きました。
海沿いの美しい風景を見ながら母と二人で出かけることが嬉しくて私は妙にはしゃいでいたのを覚えています。
まさかそこで地獄のような責め苦を与えられて体と心に一生消えない傷を残すなど考えもしませんでした。
行きついた場所は祈祷所のようなところで、白装束の行者風の男性と叔母が待っていました。
3人が別の部屋に行き何か話し合っているようでした。
やがて私のところにやってきたのは行者風の男性で手には輪っかのついた錫杖を持っていました。
いきなり行者風の男は大声でお経なようなものを唱え始めるといきなり私の背中に錫杖を振り下ろしたのです。
あまりの痛さと恐ろしさで体は硬直し声さえ出せずにいる私に次から次に錫杖は容赦なく振り下ろされました。
母と叔母は私のところに来ないように先に話し合っていたのでしょう。
誰も助けてくれない場所で私は気を失うまで殴られたのです。
気が付いた時の背中の痛みを尋常ではなく死ぬのではないかとさえ思うほどの痛みでした。
来るときのあのは弾んだ心はもうどこにもなく何故母は私にこんな仕打ちをしたんだろうと不思議に思いました。
恨むとか憎むとかいう感情を持つにはあまりにも幼すぎたのです。
バス停までの道のりを母と二人無言で歩きました。ちらと母を見ると悲しいというか惨めというか形容しがたい顔で唇をキュッと結んだままただ前を見つめて歩いていました。
バスに乗り背もたれに体がつくと飛び上がるほどの痛みで悲鳴を上げました。
我が子の悲鳴を聴いても母は大丈夫かとも聞かず口をキュッと結んだまま私に手を差し伸べることさえしませんでした。母は私のことを思いしたことが途轍もなかったと後悔していたのかもわかりません。
母の顔を見て私は今日のことは誰にも言ってはいけないと小さな子供心に思いました。
何かの拍子に背中がもの当たれば死ぬかと思うほどの痛みがあっても寝る時もうつぶせでないと眠れなくてもただただ我慢しました。
小学低学年の少女にとってはあまりにも過酷な出来事でした。
悪魔祓いという儀式はこれ一回きりで終わったわけではありません。
ただ、白装束の男に会うことは二度とありませんでした。さすがに母も私の背中の傷を見て後悔したのでしょう。
叔母は病気が治らないのはやはり何かに憑りつかれていると言って別の方法でお祓いをしようと提案したみたいです。
母の実家に連れていかれ、背中にお灸をするというものでしたが、たった一度のお灸で500円玉大の白斑ができるほどの大きなお灸玉だったから私の背中は火傷したのです。
あまりの痛さに動くと母の実家のいつもは優しいおばさんやおじさんが小さな体の私にのしかかって押さえつけるのです。
火傷になって白斑になって傷跡が残るくらいですから、お灸をしているときには肉が焼けている臭いがするのです。背中の肉が焼ける臭いとあまりの痛さに獣のようにギャーと叫んでいる夢を60数年以上たった今でも夢に見るのです。
学校に何年も行けなかったし、高学年になっても遠足でみんなと歩くこともできず私一人現地まで車で行ったし、小学校時代は運動会に一度も参加できませんでした。好奇心旺盛で活発だった少女にとって制約の多い闘病生活だけでも辛いのに神様は私にそれ以上の苦しみを与えたのです。
それは悪魔祓いという名目でやさしいひとたちが悪魔のようになって私に暴力を振るったのですから心と体に大きな傷を負って今も苦しみから完全には逃れていません。夢を見るという形で今も私を苦しめるのです。
さて、小学校も卒業するころには体も健康を取り戻して普通の暮らしができるようになっていました。
病気で小学校時代は友達もいませんでしたから中学校に行きだしたらいくつかの小学校から生徒が集まるので友達もできるだろうと考えると中学校に行くことが待ち遠しくてなりませんでした。
まさか私の人生を大きく狂わせる事件の被害者になるなど誰が想像したでしょうか。
私は再び心と体に大きな傷を与える悪魔が手を広げているとも知らずに胸を膨らませて中学校という新しい場所に向かいました。



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