新しい生活
堅気になったことで吸う空気まで自由になったような気がしたものです。
大手を振って歩けると本気で思っていましたが現実はそう甘いものではなく
元やくざという言葉から逃れることはできませんでした。
だから目立たぬようにそお~~っと生きていくのが普通ですが私はそうしませんでした。
元極妻と言われようと自分の思うままに生きていったのです。
私は今まで学校関連の行事には参加しないというより他人の目を気にして参加できませんでした。
授業参観後の話し合いなど無視するというより無視されていたのですが、
自分はもうやくざでも極道でもないのだからという持ち前の気の強さが前面に出て厚顔無恥というか人の言うことなど意に介さない私はPTA関連の会に率先して参加して意見を言うようになりました。
もともとが普通の家庭の人間より厳格な家庭で育てられていたし、口は立つ方でしたので他人の目など気にせず言いたい放題をしていました。
ただ言いたい放題するだけでは煙たがれるだけですが、私はみんなの嫌がるPTAの役員になって役員としての役割をどんどんこなしていきました。
講演会やシンポジウム、勉強会などは参加者がいなくて困っていたので率先して参加したのです。
午前、午後、、夜、、時間問わずに参加をしたことで私は多くのことを学ぶことができたし講演会シンポジウム勉強会PTA総会、、参加したら、全て一番前の席に座りました。
その際には、必ず意見を言ったり疑問に思うことは尋ねたりしていましたのもあったのかPTA役員2年目で学年部長になったことで、私は益々、PTA活動にのめりこんでいくのと同時にあらゆるジャンルの勉強会に昼夜関係なく参加するようになっていきました。
今振り返れば、、私がどんなにのめりこもうと許してくれた家族がいたから数多くの勉強会に参加できたのだと思うと幸せで有難かったなと思います。
あるシンポジウムで国連大学の鵜浦女史と出会ったことで私の運命は大きく変わったのです。
いつものように一番前の席に座り気になることを講師である鵜浦女史に尋ねました。
そのシンポジウムが終わってロビーで偶然出会った鵜浦女史と話していたら名刺をくださったのです。
その一枚の名刺から私の生き方が見つかったのです。
環境問題が気になり始めたころで毎日ごみ拾いをしていることもあり、国連大学の推奨するゼロエミッションに興味を持った私は鵜浦女史に手紙を書きました。
すると国連大学で開催される国際シンポジウムに招待されたのです。
参加費5万円二日で10万円、、行政や錚々たる企業の方たちが参加するシンポジウムに無料で参加できるなんて夢のようです。
もちろん、国際シンポジウムでも一番前の席に座り、、途中で一般参加者が意見を言う場面があって、「私は一個人で何か大それたことはできませんがひとりの人間として、こうしてゴミ袋と火ばさみを持ってごみを拾いながら歩いています。」と、言って、ごみ袋と火ばさみを見せました。
その頃、私はごみ袋と火ばさみを持って歩きながらごみ拾いをするを日課にしていました。ですから東京に行くときにも街を歩きながらごみを拾っていたのです。
実践に勝るものはありません。
地球白書を書いた世界的に有名な方をはじめ壇上にいた方々が私の話が終わると同時に拍手してくれたのです。
その後の休憩時間にひとりの紳士がやってきて「いやあ~君が参加したことで今日の会議は成功したと言える、、なあ、そう思うだろうピーター、」
と言ってくれたのです。
その紳士は福沢諭吉の末裔木内氏でした。そのご彼には安い講演料で何度も講演会をしていただいたものです。
その後、何度も国際会議などに招待されて、そのたびに多くの出会いと学びがありました。
鵜浦女史が結婚する際には三菱地所が所有する海外からの国賓が出席するような場所に招待されて素晴らしい体験もすることができました。
元極妻であっても熱い思いがあって行動していれば、認めてくださる人もいるんだということを知った出来事でした。