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#32 見方が変わった件/及川恵子

「言葉を読む」ということ

アナウンサーの仕事をしている友人の話です。

共通の友人を通じて彼女と知り合ったのは5年ほど前。
もともとテレビで彼女を見ていた私は、大きな目でまっすぐカメラを見据ながら、視聴者の手元に一つひとつの言葉を置くように、少し重みのある語り口でニュースを読み上げる姿がとても大好きでした。

知り合ってから、
「どうしてアナウンサーになろうと思ったの?」
と聞いたことがあります。


彼女の答えは、
「きれいな日本語を読みたいから」でした。


驚きました。
そして彼女の考え方に心の底から興味を持ったのです。

それまでアナウンサーを目指す人というのはテレビという華やかな(ように見える)世界に憧れたり、“伝えること”に使命を感じているとばかり思っていたのですが、
「自分がとことんきれいな日本語を読みたいからアナウンサーになる」と考える人がいるのか、と。
そして、“こんなふうに言葉と向き合う人がいるのか”、と、胸を貫かれたような気持ちになりました。

私は、「本を読むことで美しい文章に触れたい」とか「心に残る言葉と出会いたい」とは思うけれど、
「きれいな日本語を読み(上げ)たい」とは思わない。
思わないというより、言葉をそんな風に捉えたことがなかった。
たしかに美しい言葉を口にすると清々しい気持ちになるけれど、そこに私の心が引っかかることがなかった。

言葉を読み上げるよりも、自分の中でひっそりと温めたい。
読むことよりも、書き連ねたい。
そう思ったのです。

だけど彼女は自分の思いを大切にして、膨らませて、突き詰めて、職業にまでしてしまった。

そうした姿に触れた時に、アナウンサーに対して抱いていた凝り固まったイメージが、すっと流れていきました。
そして、言葉が持つ新しい側面の一部を知ったような、うれしい気持ちにもなったのです。

もちろん毎日いろんなニュースが飛び込んでくる中、きれいな日本語だけを口にできる日なんてほとんどないはず。
それでもテレビで見かける彼女は、表情やら、声のトーンやら、服装やらメイクやら髪型にまで気を遣いながら、彼女らしさを加えたきれいな日本語を読み続けている。

テレビ画面の中に彼女の姿を見るたびに、あの時の思い出がよみがえります。
そして同時に、友人として彼女のことがすごく誇らしくなります。

及川恵子