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Jesus at the center

今年は思い通りにいかないことばかりで、神様になんでですか?とこんなに問うた年がないってくらい問うた。
何度も涙を流しながら、神様に聞いた。その度色んな方法で神様はその時その時に答えをくださった。
教会でのメッセージのヨブ記は心に沁みた。

大学時代はクリスチャン同士であることは知っていたけど、あまり交わることがなかった友達とここ2年くらいでたくさん交わる機会を持ち、そこで自分の価値観の軸が歪んでいたことに気づいた。

苦しい苦しい時を過ごしたが、そのおかげで心から気づけたことがある。それは、「人生の中心に神様を置いていなかった」ということ。

日曜日は休みか夜勤明けで電車に間に合えば教会には行くし、クリスチャンホーム育ちであり生まれる前から教会に行き、神様の愛を受け取っていた。そう。今までずっと受けてばかりであった。神様に感謝の思いを返すこともなく、生きていたなと思った。

ある日、牧師先生とworshipすることがあった。その時ふと思い出した。昔教会ユースでバンドを組んだことがあること。そして、バンドの発表会をして多くのノンクリスチャンの若者が教会に来たこと。会は異なるが(BBQの時)私も友達を連れて教会に行ったこと。

私は伝道の賜物はないけど、私は私のもつ賜物で神様を賛美していきたいし、そうして多くの人に神様の素晴らしさを伝えたい。そして、一緒に神様を信じ賛美する人達と、神の家族と生きていきたい。

今後に対する人生について、悩みに悩んだこの一年。
最近神様が与えてくださった御言葉。


[イザヤ書 43:18,19,20,21]

  先のことに心を留めるな。
  昔のことに目を留めるな。
  見よ、わたしは新しいことを行う。
  今、それが芽生えている。
  あなたがたは、それを知らないのか。
  必ず、わたしは荒野に道を、
  荒れ地に川を設ける。
  野の獣、ジャッカルや、だちょうも、
  わたしをあがめる。
  わたしが荒野に水を、
  荒れ地に川を流れさせ、
  わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。
  わたしのためにわたしが形造ったこの民は、
  わたしの栄誉を宣べ伝える。

facebookで毎回、知り合いですか?に出てくるひとがいて、どんな人なんか見てたらyoutubeに飛んだ。そこでのショートメッセージにすごく励まされ、同じ歳で献身(神学生)してオープンに神様を伝えている姿に衝撃を受けた。そしてその人の仲良い友人もクリスチャンに変えられていったことを見てすごく尊敬した。

同じようにクリスチャンホームに生まれた私は、クリスチャンであることをどこか隠して生きてきた。小学生の時、親やメビックのスタッフ(教会学校の先生たち)が学校前でビラを配っていた。全校生徒は100人ちょっと。同級生は私を入れて16人。廊下の大きなゴミ箱に神様の悪口やクリスチャン、メビックスタッフに対する悪口を言ったりふざけながら入っていくビラ達を横目に見ていた。当時自分自身いじめられていたこともあり、クリスチャンであることを恥ずかしく思った。そして怯えた。そんな過去がどこかで心の奥底に潜んでいて、自分がクリスチャンだと公言することに怖さを覚えてしまった。そのため、私は仲良い友達も一緒に神様を信じて欲しいと願うばかりでアクションをしてこなかった。

これからは神様を人生の中心において、神様の国で生きたい。神様の素晴らしさを、私に与えられた賜物を用いて伝えていきたいし、神様に仕えていきたい。

〜11/27追記〜
クリスチャンと公言はしているけど、10年前に教会を離れたという、同期のクリスチャン。今年6月不思議な形でクリスチャンだったということが発覚した。その友達となかなか発覚した以来神様について話すことがなかった。
その同期とはよくカフェに行っていて、昨日たまたま私の教団の神学校の前を通った。その時はなぜか言い出せなかったけど、やっぱり話題にしたい!もう一度神様の話を少しでもしたい、そう思いカフェのトイレで神様に祈った。そして、自分の教団の神学校だったことを話した。さらに私はその夜予定(会う友達:教会の友達)がいて、会う友達は同期の従兄弟(クリスチャン)の友人(クリスチャン)であることを話して、少し神様に関する話をすることができた。
なかなか踏み出すことに難しさを覚えるが、少しずつ神様のことを伝えていきたい。もう一度神様のところへ戻ってきてほしいと祈る。

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