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何者

神学校卒業後、どうするの?と聞かれまくる日々。
牧師になるの?、看護師に戻るの?
そう聞かれるが、私は、私でありたい。
私は、別に"何者"かに、なりたいわけではない。
しかし、"何者"にもなりたいのである。

パウロのように、〇〇人には〇〇人のように、●●人には●●人のようになりたい。
1つの顔だけを持ちたくないのである。

私の友達曰く、クリスチャンのイメージは、
『きよくて、毎週日曜日教会に行って、お酒やタバコや性的なことに禁欲をして真面目』だそうだ。

私が言いたいのは、クリスチャンというのは宗教ではあるが、世の中の宗教とは違って、宗教というより、内側に神様のアイデンティティを持って生きている、1人の人であるということである。

1人の人であるため、罪を犯してしまうし、聖化のただなかにいるが、全くきよいわけではない。
きよいのは、イエス様だけ。
日曜日に教会にいくのは、行かなければならないのではなく、行きたい、礼拝したいから行くわけである。
習い事に行きたいから行くのと理論的には同じだと思う。

昨日、ある話を聞いた。
それはサッカーのコーチをしている方の話である。
その方は、牧師で、世間の人には、サッカーのコーチで通っている。
話をする中で、神様のことを伝え、実は牧師なんです・・と言った時に(いい意味で)そう見えなかった〜!となって、神様のことを信じる人がいるらしい。

日本では、クリスチャンという割合は少なく、牧師という割合はさらに少ない。
"牧師"というと、見たこともない人種に特別な目で見てしまう心が無意識に働いてしまうように感じる。

パウロのように、自活伝道をすることで、牧師・クリスチャンへの敷居が低くされていくのではないかと考える。

私は、今やりたいこと・ビジョンとして、『田舎伝道』・『子どもの牧会』があるが、『医療宣教』という、看護師・保健師を用いた働きもしたい。
二足の草鞋を履いていたいのである。
変に敷居が高くなるなら、牧師や教会スタッフという肩書きはなくても良いし、隠して生きていても良いように思う。

そして、私は良く見た目はアホそうと言われるが、真面目すぎるクリスチャンというのが、世の中の人(特に私の友達)には、とっつきにくいと思われたくないだけである。
しかし、内側は燃えている、そんな人になりたい。

変な言い方をすると、え?クリスチャンやったん?!というぐらいが良いのである。

神学校に入ってから、ノンクリスチャンの仲の良い友達には、『神学校行っても、一緒におって楽しいし、前と変わらんし、なんか真面目腐ってなくて、ほんまに安心した』と言われた。

日本のノンクリスチャンにとって、クリスチャンという固定概念がどれほど強い影響をもたらしているか、考えさせられる。

その中で、どれだけ戦略的に神様のことを伝えていくのか。知恵も必要だと思わされる。

私は何者かになりたいわけではなく、何者にもなりたいのである。

"私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。

ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人たちには──私自身は律法の下にはいませんが──律法の下にある者のようになりました。律法の下にある人たちを獲得するためです。

律法を持たない人たちには──私自身は神の律法を持たない者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。律法を持たない人たちを獲得するためです。

弱い人たちには、弱い者になりました。弱い人たちを獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。

私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。"

コリント人への手紙 第一 9章19~23節

聖書

【10.31追記】
田舎で伝道しておられる先生と、夕食時、卒論のインタビューとしてお話しした。

話を聞く中で大切だと思ったのは、いかに排除せず地域に、その人の心に入っていくかだと思わされた。

本質以外のことは、ゆずらず、どこまで、戦略的に宣教するのか。

ある意味で宣教学の実践だと思った。
都会族・漁村族・農村族・・・と、その文脈に合わせた伝道の大切さを語っておられた。
そして、これが、1番の地域に根ざした伝道だと思わされた。

先生と話す中で、何故か涙が止まらず、私はやっぱり、農村族の田舎伝道に思い・召しがあることを気付かされた。

先生は最後に、そのところで育った環境って、すごく大きいと思う、と話された。

一つ前の記事のことを思わされる。

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