やりたいことをやってきた。
やりたいことをやってきた。
小学校に入る前、知らないおじさんからレモンの飴をもらった。パッケージに細工した後や不審な穴がないか確認し、私なりに毒が入っていないと判断できたから食べた。母親に叱られ、口の中からペッてさせられた。
小学生のとき、『こどものおもちゃ』のサナちゃんに憧れて、教室のドアは勢いよく開けて「おはよー!」と元気に挨拶するようにしていた。「明るい楽しい嬉しい三拍子揃った学校にします!」と選挙演説して生徒会長になった。でも休みの日は友達と遊ぶよりも一人で自転車に乗って近所のお寺に行き、そこにいる金魚や鳩たちにご飯をあげて戯れるのが好きだった。鳩たちは慣れると手のひらに置いた餌をつついてくれたし、とくにお腹が空いている日は鳩の首より高い位置に手のひらを上げてずっと動かずにいると飛び上がって腕に着地し、掌をつつくようになった。鳩の体制が安定しなくて足がずるずる滑るので腕はいつも傷だらけになったけど、楽しくてしょっちゅう通った。母親は呆れていた。
中学生のとき、美術の授業で「焼き物」を作った。粘土をこねて成形して、色付けする。それを業者に出して窯で焼いてもらう。ひとり2作品作れるだけの粘土が与えられた。みんなマグカップやお皿や湯飲みやお茶碗を作った。模様や色も工夫をして。私は、粘土の中をくり抜いて空洞にする作業をやりたくて、ドーム型に丸いものを2個作り、それぞれ白と茶色に塗った。作品名は「もち」と「茶色いもち」。焼き上がりはきれいで大変満足したけれど、ある日偶然先生たちが皆の作品が並べられた棚の前で話しているのを聞いてしまった。「これは・・何?もち?」「2つともこれですよ、あの子は変わってる」
高校生のとき、駅の地下通路でギター片手に歌っている男子大学生を偶然見つけた。面白かったので立ち止まって聴いた。ずっと聴いていたら話しかけてくれて、どういう流れだったか、近くのマックで数学の分からない問題を教えてくれることになった。一緒に問題を解いていたら時間のことを忘れていて、親からメールが来た。慌てて帰ると「何してたの?」と聞かれ、ありのまま話した。「勉強してたら遅くなった」という話だから怒られないと思ったが、両親は激怒し、その時入っていた吹奏楽部を辞める約束をさせられた。今思えば相関がない。(しかも辞める代わりに何か欲しいものを買ってもらったように思う…)後日、その男子大学生に親に怒られたと電話(番号交換していた)で話すと、「なんで親に言うの!?」とこっちにも怒られた。「なんで言ったらダメなの?」彼は黙ってしまった。
大学生のとき、学校の先生になりたかったので塾講師と家庭教師のバイトを始めた。だけど吹奏楽もやりたかったので部活にも入った。練習の時間とバイトの時間が被っていることに気づいた。塾の方はバイト先にガチ泣きしながら事情を説明し辞めさせてもらった。家庭教師は時間も遅めだったので無理やりやろうとしたが、部活が終わってから向かうと遅刻になってしまい、それを繰り返していたら生徒だった中学生の男の子は私が行っても出てきてくれなくなった。だけど、その家のお父さんはじゃあ妹の家庭教師をしてくれと言って雇い続けてくれた。妹さんはまだ小学生だったので学校の宿題を見て、残った時間はやることがないので遊んでいた。次第に私と遊ぶために先に宿題を終わらせてくるようになったので家庭教師の意味がなくなった。遊んでバイト代もらうっていいのかなと思ったけど本人がいいならいいかと思って遊んだ。彼女が私よりずっと大人びていると気づいたのは、ピアノ教室の先生とソリが合わないという話をしてくれたとき。「あの人は無理に明るく高い声で接してくるからニガテ。先生はそういうのないからいいよね」。時間中、よく「先生、今寝てたでしょ」「寝てないよ」というやりとりがあった最低の家庭教師でした。
社会人になって。接客業に就いたが、お客様への「いらっしゃいませ」より帰る前の「お疲れさまでした」の方が声がでかいと上司に怒られた。上司にフォローしてもらったとき、お礼も謝罪も言えなくて「どうして何も言わないでいられるの!?」と叱られた(心の中ではめっちゃ言ってた)。そこで声優養成所に通い始めた。「今から3分間泣き喚け」等のレッスンを経て、2年ほどやるうちに自分の心のリミッターを解除する方法を覚え、「明るい店員さん」「明るい社員」として働けるようになったが、その頃本気で声優になりたいと思い始めたので外郎売を暗記し、ボイトレにも通ったが、その間、ファイナンシャルプランナー2級の試験に一度落ちたことで火がついて猛勉強し、合格後は店舗のノルマ達成に燃え、養成所は辞めた。プロになるためのお稽古といろいろ渦巻いた養成所の人間関係がしんどくて逃げたというのが実態ですが、逃げた先の職場では毎日ノルマでお尻を叩かれることになっていた。「あと××円、あと××円」と毎日呪文のように唱える日々が4年続いた。「なんで辞めないの?」とある日友達が呆れた顔をして言った。「辞める?仕事って辞めていいの?」どの口が言ったんだと今でも不思議に思うが、辞めていいと知ったのでその後それほど経たずに辞めた。ずっと東京に出てみたかったので転職先は東京の会社にした。そうして27の時、東京に出てきてからもネットワークビジネスに取り組み体を壊すなど色々経て、今に至る。
やりたいことをやってきた。やりたいようにやってきた。
だけど、やりたいことをやって人を戸惑わせたり、人に迷惑をかけてきたと思う。
「やりたいことをやる」って言葉はカッコよく響く。でも私も割とやりたいことやって生きてきたんじゃないかと思って棚卸したら、概ね人間失格だった。
きっとやりたいことをやってお金をもらえる人は、やりたいことをやって、周りの人のことも幸せにしている人なんだろうなって考えた。
わたしは今までの人生「恥を知れ」と思うし、上述のエピソード全部が黒歴史だし、今のわたしのままタイムスリップしたら同じこと絶対しないって思う。
だけど、そう思う心の片隅で、「でも常に躊躇のない状態である意味で自由だった」とも思うから性根がどうしようもない、手に負えない。
だけど、わたしの心の奥底の一番の「自由」の光景は静かだしピュアだ。誰にも迷惑をかけていない。
小学生の時、やっぱりひとりが好きだったんですけど。たまにデパートの屋上駐車場にひとりで上がって、車止めに座りながら空に向かってブリグリの「そのスピードで」を歌っていたとき。その時です。一番自由で解放されていた。今でも思い出すし色あせたり色が変わったりするのが勿体なくて、この曲は今も大事にあんまり今の耳では聞かないようにしている。
どうしてnoteが楽しいのかなって考えてたんです。
そうしたら、noteの世界でわたしはあの頃のいちばん自由でピュアなところへ帰ろうとしているのかもしれないって思った。そういう話を長々と書いたつもり。