スター不誕生
昭和の人気テレビ番組「スター誕生」は、いわゆる素人参加型のオーディション番組でした。毎週日曜日の11時、ぼくらは10ch (読売テレビ) にチャンネルを合わせてブラウン管に噛りつきました。この略称「スタ誕」からデビューした、森昌子、桜田淳子、山口百恵、の「花の中三トリオ」の人気が出だした頃から、番組の視聴率もうなぎ上りになった記憶があります。欽ちゃん (萩本欽一) 初のソロ&司会番組ということもあり、 お茶の間を楽しませるエンタメ性も番組の主要素でしたね。この「スタ誕」に、何を隠そう、ぼくは出たことが……。1973年 (小6) のことです……。
通常、「スタ誕」の公開収録は東京の後楽園ホールで行われていました。しかし、年に数回は地方都市で公開録画を採り、おらが町にも「スタ誕」が来るとなると、それはもう一大事でした。二学期のはじめ、その報せを持ってきたのは、あのツーちゃんです。沖縄帰りの大金持ちの末っ子で、とてもマセていたツーちゃん。画一的な情報しか手に入らなかった当時、彼はぼくらのトレンドセッターでした。「市民会館へ見に行こや」ツーちゃんが切りだしたのは、たしか収録当日でした。体操着のまま、放課後ぼくらは自転車で市民会館へ向かいます。JRの線路を超えた向こう側へ。
「そのハンドル、乗り易いん?」「慣れたら一緒やで。いっぺん乗ってみる?」「ええの?」「オレ、あんまり好きちゃうねん」
他にも数人のクラスメートがいたはずです。「明日に架ける橋」を仕込まれた同じメンバーだと思うのですが、覚えていません。なぜか、その日の記憶でクローズアップされるのはツーちゃんの面影ばかり。そして道すがら、おたがいの自転車を交換したこと。ツーちゃんの自転車は、金ラメのチョッパー・ハンドル仕様で、誰もが二度見をする舶来品でした。一度は乗ってみたい、ぼくの憧れでした。
自転車を漕ぎながら「オレ、中学からM中へ行かなあかんねん」とツーちゃんは唐突に言いました。JR阪和線の西側は、小学生のぼくらは「行ってはいけない」エリアで、親から厳しく戒められていました。最大の理由は、もちろん線路周辺が危ないからですが、もうひとつ、向こうには市内でいちばんの繁華街があったからです。市民会館はその繁華街のほぼ中心。「お父ちゃんが校長先生に掛け合ったけど、あかんかった」「M中、不良多いん?」。ツーちゃんの邸宅はM中校区にあるため、小学校の通学状況のほうがむしろ例外措置 (越境通学) で、校区という言葉は立派な境界線として機能していたようです。その事情を、ツーちゃんはひどく心細そうに話してくれました。風にはかすかに冷たい切っ先が感じられました。
番組収録は二本撮りだったように思うのですが、定かではありません。覚えているのは、ゲストが八代亜紀と森昌子だったこと。そして「欽ちゃんと遊ぼう」コーナーの出場者を、その場で客席から募ったことです。当時クロベエ (黒部幸英) が番組内のコーナー「欽ちゃんと遊ぼう」で人気者になっていて、一般人でありながらテレビにどんどん露出する様は、まさに子供たちの憧れ。ディレクターが観客席をうろつき、自薦の挙手をする子供たちを指名していくなか、ぼくもツーちゃんもその第一関門を突破します。舞台袖に数十名の子供が集められます。
一人ずつなにか面白いことして見せて、ディレクターの指示に従って子供たちは順に一発芸を披露します。持ち時間は10秒もなかったでしょう、ベルトコンベヤーで機械的に検品作業が進められるように、次々と笑いのフルイにかけられます。だんだんぼくの順番が近付くにつれ、少し焦ります。ぼくには持ちネタなんてありません。と、目の前でツーちゃんの試技が始まりました。コント55号・坂上二郎の形態模写をしながらタコ踊りを演じました。それが目茶苦茶ウケたのです。その場にいた多数が大爆笑。「じゃ次」と言われ、ぼくは咄嗟にツーちゃんを真似ました。笑いのセンスどうのこうの以前に、ただ運動神経で反応するのみでした。他にはまったくなんのアイデアもなく……。やや離れたところから感じる鋭い視線……。
欽ちゃんでした。休憩中の欽ちゃんが煙草を吸いながらぼくの所作を見ていました。「きみ面白いね~」と指さします。「はい決まり~」。
あろうことか、「欽ちゃんと遊ぼう」の優勝内定に選ばれたのは、ぼく。最終的には本番のデキ/観客の拍手によって決定するのですが、舞台裏では筋書がいっぺんに完成、それを放送時間内に遂行することが次なる目的と化します。欽ちゃんの指図でぼくはパンタロンを履いた振付師に預けられ (のちにピンクレディーを担当する土居甫)、ダンス芸に磨きをかけられました。ぼくが勝手にアレンジしたツーちゃんのタコ踊りが、カマキリダンスとして完成しました。三人の最終候補が残り、ぼくをチャンピオンにするべく段取りが伝えられます。へえ、こうなってるのか。
八代亜紀と森昌子がクスクス笑っています。バカやってるわ、といった感じでしたが、生粋の大阪人にとっては紛れもなく賞賛の眼差しです。八代亜紀の青いロングドレスがいまでも焼き付いています。ちょっと悔しそうなツーちゃんが「席もどってるわ、頑張れよ」。
そして、いざ本番。いま思えば、すべてが一瞬の出来事です。舞台の中央階段の裏でスタンバイしていたときの緊張感だけが、そのときの唯一の記憶です。根が生真面目なので、とにかくぼくは言われたとおりに遣り遂げることしか頭になく、階段の最上段から客席全体を見た瞬間、頭が真っ白になったのです。ハレーションのように会場全体がフラッシュ。「あらっ、カマキリくんはどうしたのかな」遠くで聞こえる欽ちゃんの誘導。
あとでオンエアーを確認すると、薄汚れた体操着 (短パン姿) を着たままのガリガリの小6生が、ぎこちない動きで舞台を右往左往するばかり。欽ちゃんが盛りあげようとすればするほど、観客席からは同情じみた薄ら笑いが洩れます。完全にスベっています。結局、盛大な拍手をもらったのは、ぼくの前に下ネタを披露した別の小学生。こうして、ぼくの芸能界デビュー最大のチャンスは潰えました。呆気ない幕切れでした。
帰路、もう陽は暮れかかっていました。「カップヌードル食べて帰ろや」とツーちゃんは言いました。当時、自販機ステーションは街の広告塔みたいなところがあり、特に日清カップヌードルは最先端技術を駆使した贅沢品でした。「奢ったるわ」とツーちゃんは当たり前のように言いました。湯気をフーフー食べていると、止めた自転車に数人の中学生が集まってきます。ツーちゃんの米国仕様の金ラメ自転車を、物珍しそうに見ています。制服の乱れから、M中の不良だと分かりました。「あのチャリ、おまえの?」と顎で訊かれ、ぼくは 1秒の条件反射でツーちゃんを指差しました。またか、といった感じでツーちゃんは顔を曇らせ「もう行こや」と腰を上げます。湯気のなかに取り残されるぼくの言葉「まだ食べ終わってないのに~」。
「八代亜紀って何歳やろ、背高かったな」
「オレはやっぱり浅田美代子が可愛いわ」
「中学になっても、遊ぼな」
「うん、遊ぼな」
その年の暮れ、一本の電話がぼくの家に掛かってきます。東京の日本テレビからで、正月特番で「欽ちゃんと遊ぼう」の全国大会を企画している、その大阪代表で出てほしい、という出演依頼です。受話器に耳を押しあてる母親の横で「出る出る、行きたい」とぼくはチョー乗り気でした。「スタ誕」への再チャレンジに思えました。しかし、その夜、帰宅した父親と相談する言葉の端々から、ぼくは子供心にもウチが貧乏であることを悟ります。「東京までの往復の電車代でるんか」「そんな恥ずかしいことよう訊かん」「芸能界なんかあかん、断っとけ」「まだ早いよね」。
そのやりとりを思い出すと、いまでもぼくは枕を濡らします (親になって尚更)。ツーちゃんの家なら、きっとふたつ返事でOKしたでしょう。